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M.E.A.R.L.公開編集会議 #2「都市における集いの形 「広場」の効用について考える」

M.E.A.R.L.と書いて〈ミール〉と読む。それはあなたがいままさに読んでいるメディアの名前である。M.E.A.R.L.とは、「MAD City Edit And Research Lab.」の略であり、株式会社まちづクリエイティブが運営するバーティカルリサーチメディアだ。まちの最小単位である「個人」の視点から、場やメディアの概念を拡張し、思考+追求+観察+実験+活動している。新編集部が立ち上がり約1年が経とうとするいま、編集会議を「公開編集会議」と題し公の場で開いていくことにした。種が蒔かれると芽が出て根も葉も育つように、個々の興味関心や思考を放出させることで、個々の思考もゆるやかに深化・拡張する。編集部でじわりと行ってきた一連の営みを、より多様な視点や思考を交換し合う実験の場にする。本連載はその試みの記録である。迷いや寄り道があたり前に存在する終わりなき対話が巡る先に、何かがかたちになるかもしれないし、かたちにならないかもしれない。誰かに、どこかに、何かが残るかもしれない。

第2回公開編集会議のテーマは「都市における集いの形/広場の効用について考える」。2時間にわたるディスカッションのなかから、広場とはなにか、誰もがいていい場所とは存在するのか、パブリックとプライベートの境界線の曖昧性や場に主体的であるためのプレイスメイキング等についてお届けする。

text:Yoko Masuda
edit:Jumpei ItoYohei SanjyoSara HosokawaMoe Nishiyama

〈第2回公開編集会議〉
テーマ:都市における集いの形「広場」の効用について考える
日程:2024年5月16日15:00〜17:00
会場:東中野と中野坂上のあいだにあるカフェバー「なかなかの」
編集部メンバー5名(西山萌、細川紗良、伊藤隼平、三條陽平、増田陽子)、まちづクリエイティブ代表 寺井元一、樋口トモユキ、新里香南、百
#1はこちら

◎広場とはなにか

◯そもそも広場とは。

西山萌(以下、西山):今回はあらためて広場とは何か、その効能や、根幹をなす要素について考えてみたいと思います。そもそも人の集う空間はどのように発生し、かつ都市においてそういった場所はどのように機能しているのでしょうか。公共空間には「広場」と名のつく場所や公園が多々ありますが、一方で一見するとなんの造作もない空間でも、人が集う性質を持つ場所があります。人が一時的に集まる現象と、ある場所が広場として機能し定着していくことは、別のもののように思いますが、そこにどのような違いがあるのかも気になっています。
芦川智・金子友美・鶴田佳子・高木亜紀子著『世界の広場への旅: もうひとつの広場論』(彰国社、2017)のなかでは、ヨーロッパから日本も含むアジア圏に至るまでのいわゆる広場という名前のついた場所がスケッチと写真とテキストで描かれています。例えば元々城下町だったところに生まれた広場や教会を中心に形成された広場など、国やエリアによって建築的な構造も異なれば、歴史的な文脈も異なるなかで、広場の成り立ちの多様さが伺えます。今回参加いただくみなさん個々の観点、「広場」にまつわる経験を入り口に考えていきたいと思います。

公開編集会議 vol.2 参加メンバー西山萌:M.E.A.R.L.編集長。編集者・粘菌。粘菌とは樹の根っこなどを通じて、いろいろな生き物に必要な信号や栄養素を届ける役割をしている生物。さまざまな組織やコレクティブに出入りするなかで、本の編集、展示のキュレーション、場所作りなど自ら変容/移動/伝達する行為を通じて粘菌的に活動する。

伊藤隼平(以下、伊藤):M.E.A.R.L.編集部。なかなかの店主。大学院でランドスケープに関する研究を行う石川初さんの地上学研究会に所属し『パークスタディーズ』という公園や広場に関する記録集の制作をする。公園が誕生した経緯や、公園の役割、現代における公園的空間についての考察などをまとめた。

細川紗良(以下、細川):M.E.A.R.L.編集部。編集者。TOKYO PARALLEL GUIDEが発行する『MEANINGFUL CITY MAGAZINE』の制作に携わる。それを機に空き地があったら駐車場するようないわゆる経済合理性とは異なる都市のつくられ方について考えている。

増田陽子(以下、増田):M.E.A.R.L.編集部。主にライター・編集の仕事をしている。M.E.A.R.L.では進行管理も担当。

三條陽平(以下、三條):M.E.A.R.L.編集部。株式会社ORDINARY BOOKS代表。選書やイベントなどを通して、もともと本がなかった場所に本がある風景を作ることを目標にして活動する。今回はオンラインで参加。

寺井元一(以下、寺井):まちづクリエイティブ代表。クリエイティブな自治区をつくる」ことを目指し自立的な地域活性をデザインする。主にJR松戸駅前を中心とする半径500mをコアエリアに設定し、従来のまちづくりの型にハマらない新しい「自治区」を再建するかのように運営するまちづくりプロジェクト「MAD City(マッドシティ)」を展開。松戸以外のまちにも携わり、アーティストや作家と行政を繋ぐ。

樋口トモユキ(以下、樋口):建築や都市計画の出身。日経新聞社系列の出版社に約20年勤めた後、小さなまちづくり会社に入社。その後独立する。東中野近辺の神輿を担いだり、なかなかのと町のイベントに出店したりしている。

百(以下、百):大学で都市社会学を学ぶ。盛り場研究やエスノグラフィに興味がある。現在は自分の内側にある広場に行くような感覚で「ご飯」に関する仕事をしている。

新里香南(以下、新里):フリーランスのイラストレーター。それとは別に、病気や障害のある人の体の合理性を軸にしたプロダクト制作や、遊び作りをやっている。

◯人が集まれば、そこは広場になるのだろうか。

細川:池袋の駅前に、ホームレスらしき人たちが集まって、地べたでゲームをしたりお酒を飲んだりして楽しく遊んでいる広場のようなエリアを見かけたことがあります。歩行者もいるけれど、遊ぶ人も歩く人もお互いに無視している。一方で新しくなった南池袋公園はファミリーがたくさんいますよね。用意された公園には、駅前で遊んでいるような人たちは排除されているような空気があり、実際には入れないのだと感じました。

伊藤:自分は広場を作ることや人が集う場所を作ることを理論的に勉強したり、場を観察してきたなかで、もともと「誰もが来てもいい(と思える)場所」は理想的だと考えていました。でも実際にお店を始めたころから、「誰もが来てもいい(と思える)場所」の困難さ、そもそも本当にそんな場所が必要なのかということ。そして誰もが来てもいい場所は誰が作り、維持する役割を担うのだろうかと考え始めるようになりました。
「人が集まる場所」としての自分の店(なかなかの)の話をすると、先日、あるお客さんに対して「ここは公園じゃないから、出ていってくれ」とついに言ってしまったんです。自分からそんな言葉が出ると思っていなかったのでとても驚きました。その日は店内でDJイベントを開催していて店内がキャパオーバーになり、外のテラスに人が流れ出していて。そのテラスに、お店で提供したお酒ではなく、コンビニで買ってきた缶チューハイを飲んで騒いでいる人がいたんですよ。実際に金銭を支払って滞在する人もいるなかで、お店に金銭を支払わずに騒いでいる人たちがいることが単純に嫌だなと思ってしまったんです。「ここは公園じゃない」と言葉にして初めて、自分自身が、「店は公園ではない」と思っていることに気がつきました。誰もにとって過ごしやすい場所を作ろうとしているのに、缶チューハイを飲んで騒いでる人を排除しようとする自分がいることに対するショックもありましたね。

◎広場と人の主体性

◯場に主体性が生まれること、失われることとは。

伊藤:まちづくり活動家・大谷悠さんが書かれた『都市の〈隙間〉からまちをつくろう: ドイツ・ライプツィヒに学ぶ空き家と空き地のつかいかた』には資金もスキルもない素人集団がまちづくりで活躍した事例が掲載されています。素人集団だと参加する側も手伝いやすくなり、参加しやすさが生まれる。例えば皿をたくさん持っている人がいたら皿持ちましょうかと声をかけてくれる人がいるかもしれませんが、機械で皿が運ばれていたら手伝いようがないと。M.E.A.R.L.の「なかなかのコラム」でも以前書いたのですが、僕らは料理やコーヒーのプロとして店を始めたわけではないからこそ、プロではないということを逆に意識しています。プライドの低い行為であることは承知の上ですが、素人性、いわばアマチュアネスを突き詰めることを真剣に考えている。なかなかのでイベントを実施する人も、企画が100%できて遂行能力があるというより、やってみたいことはあるけれどどうしたらできるのだろうと考えている人。以前寺井さんに取材「MAD City Tour対談 まちはいかにして、散歩道という遊び場に変容するのか」で伺った取り組みと少し近いようにも思います。全知全能の引き受け側と全知全能の依頼側ではなく、お互いがよくわからないなかでも落としどころを少しずつ設定していくように、素人同士でも経験を駆使してなんとかかたちにしていく。それを観察し次の方向に繋げていく。

寺井:まちづくりの観点では、市民の主体性が失われた瞬間、つまり「俺は客だ」と誰かが言い始めた瞬間に多くのことが崩壊します。僕が意識していることは、お互い主体性を持ち続けられるように進めること。依頼者と受諾者となった瞬間に上下構造の関係が生まれてしまうので、いずれかがプロや客というフレームにはまらないように気をつけています。

◯持続可能な広場づくりのヒントは。

百:貧困家庭の子どもたちの居場所支援のインターンをやっていたことがあるんですが、その場所の食堂がある種、広場のような空間だったことを思い出しました。そこにはキッチンがあり、みんなでごはんを食べる大きな円卓があります。私は食事作りを担当していたのですが、はじめのうちは栄養状態を考えてバランスのいい食事を完璧に出していました。しかし全然興味をもってもらえず。思い切って円卓の中央にホットプレートを出して、私の地元の郷土料理・瓦そばを出したらみんなが周りに集まってきたんです。さらにそれは誰かがとりわける必要がある、主体性を引き出す装置のようにもなりました。その後このかたちをプロトタイプにし、大きなオムレツやタコライスなどを作るようにしたら、子どもたちの中から料理や配膳を手伝ってくれる子があらわれ、徐々にその役割が固定化してきて。すごく持続可能な場所になったんです。ふだんきてくれない子もきてくれるようになった。この現象には主体性を失わない場づくりや持続可能な広場のあり方についてヒントがあるように思います。

◎誰がいてもいい場所とは。睡眠・居住・所有の観点から

◯誰もがいていい場所は必要なのだろうか。

西山:誰がきてもいいと便宜上謳われている公園では、実は誰かが排除されている面もあるのかなと。誰もがきてもいいからこそある意味での安全性が担保されず「行けない」という状況も生まれている可能性があるなと思いました。例えばトークイベントやコミュニティなど、誰がきてもよくない場所は守られています。言葉を変えれば誰もが足を踏み入れることができない、というバリアを張っているような気もします。「誰もがきていい場所は必要なのか」と考えると、誰が主体となってその場所をつくるのか次第なのかなと。要するに主体となる側はどのような立場なのか。個人のモチベーションで作り上げられるものなのか。行政などが仕組みとして作る必要があるのか。利益の追求が求められるのか、ボランタリーなものなのか。

◯ぼーっとできる場所は都市に存在するのか。

樋口:誰もがきていい場所でなにをするのかという点も関わりますよね。ただボーッとできる場所はお金がかかることが多い。特に東京ではそう感じます。

伊藤:非常に暑い日に新宿を歩いていて休憩したいとなれば、空調を求めてドトールコーヒーに入るように、ボーッと休憩するために店にお金を払いますよね。

細川:私は電車に乗ることが多いですね。涼しくて、休憩できて。時には眠れますし。

寺井:電車という広場ですね。

伊藤:都市計画家のクリストファー・アレクサンダーが提唱したパタン・ランゲージ (pattern language) という空間を形成していく手法を列挙した建築・都市計画に関わる理論があります。そこには建物の建築方法や部屋のつくり方などマクロな点からミクロな点まで具体的な手法が示されているんですが、その項目の1つに「人前での居眠り」があり、人前で居眠りができる場所は空間設計的に成功していると書かれています。それは個々が自由な過ごし方ができ、さらに安らぎの空間になっている証拠だと。その一方で、居眠りのような行動はある種の社会では歓迎されないという追記も記されているんです。なぜならそこは治安の悪い場所になってしまうし、公的秩序の観点では危険な場所と見なされてしまうことがあるからだと。
そもそも公園やストリートの成り立ちは、都市空間の内部でできないことを引き受ける外部空間であるという前提から始まっています。なので本来的にはなにをしてもいい場所であるはずで、寝てもいいし騒いでもいい。しかしながらそれをさせないように緩やかに色んな力が入り込んできたのがこの100〜200年くらいなんです。例えば大きな公園には警察署をセットにした都市計画が作られる。デモに集まる場所は公園なんだけど、デモを取り仕切る機能も公園につけるみたいな。さらにスケールの小さい話では「排除のベンチ」という名の、座れる機能はあるけど、めちゃくちゃ尖っていたり真ん中にでっぱりがあったりして座る以外は何もできない椅子が近年増えています。ここは誰がきてもいいし何をしてもいい場所ですよという形式を持ちつつ、物理的な形態としてはそれができないようになっている。また外部空間であるはずの公園に、内部空間として民間の事業が入り込んでいる様子も見かけます。例をあげると渋谷区立宮下公園も、公園という制度を引き継いでいますが商業施設「MIYASHITA PARK」の屋上に位置していて、公園の階下3フロアにはハイブランドをはじめとするテナントが入っている。僕個人の視点では、商業空間がある構造自体がホームレスに対する物理的な障壁になっているように思えて、公園の本来的な機能をしれっと剥奪しているような状態に感じられます。

◯公園で「寝る」ことはなぜダメと言われるのだろう。

寺井:公園で睡眠することがダメと言われる理由は居住権の話に繋がると思っています。つまり私はここに住んでいますと言われたら、管理者側としては恐ろしいことが起きると思っているから。この話の発端は、大阪の天王寺公園に通称「青空カラオケ」という無許可のカラオケ屋台が占拠しているエリアがあったのですが、その公園でおそらく初めて住民票を取った人がいたことに繋がります。その場所にはアンプが持ち込まれていて、ここでカラオケさせてやるから金を払えと言われるカラオケ場。いわばそこはホームレスの居場所でもあったわけですが、その公園に住む人が公園の住所で住民票を取得し、裁判の結果認められたのです。また以前の渋谷区・宮下公園には宮下梁山泊という名のホームレスのコミュニティがあり、108世帯しか住むことができない暗黙のルールまであったそうです。当時宮下公園に住むホームレスはホームレス界のなかでいう裕福層。実はホームレス界は駅から遠い場所に住んでいる方が金持ちで、駅に近いエリアにいる人が貧乏。宮下梁山泊には電気屋、建築家など色々な職業の人が住んでいました。もちろん郵便物も届いているし、パーティしようと言えばドミノ・ピザも届く。実態として居住権が発生するような状況だということです。彼らに強制的に出ていってもらうためには、その代わりとなるいい家を用意するか、回数でいうと300回警告をする必要がある。1日に300回の警告ではだめなので毎日警告をするとしても1年間ほど続ける必要があります。実際に、あいちトリエンナーレの際にホームレスを追い出さなければならず、そのような警告を行ったという話を聞いたことがあります。要するに「睡眠」とは限りなく居住の根幹に近い行為です。なので、管理側としては寝ることを許容しているとそのまま住みつかれてしまうかもしれないという脅威があり、マニュアルに寝ていたら起こすと記し、警備員に起こされるのだと思います。その一方で実際、住民票がないと生活保護は取得できないのでシェルター(ホームレス緊急一時宿泊施設)が必要なんです。そのためおそらくホームレスも悪意があり公園で住民票を取ったわけではなく、生活保護をとるために今いる場所で住民票をとらせてほしいということだったのではないかと思います。今はそれをビジネスにしている漫画喫茶などもありますよね。

伊藤:場所に関して、パブリックとプライベートという区別による観点からみると睡眠するという行為はたしかに非常にプライベートな領域かもしれませんね。無意識の状態ですらそこにいる。自分のいる場所を領域化する、割と政治的な行為なのかもしれないと思いました。

◯場を占拠することに対する日本とヨーロッパの違いは。

西山:オランダのスクワット(占拠)カルチャーはよく知られていますよね。1960年代に戦後の立て直し、修復の遅れに伴う都市部での住宅不足が問題となったことをきっかけに、投機目的で購入された使われていない土地や建物を不法占拠するスクワットの動きが活発になったとされていますが、その後1994年、使われていない建物を不法占拠することを国が合法化しています。ある建物が1年間以上使われておらず、かつその持ち主が建物をすぐに利用するような計画を提示できなければ、スクワッターがそのままそこに住んでOKということになっていたんですよね。2010年に法改正が行われ、違法化されるまでは政治的な活動の一環としてもさかんに行われていたそうです。

寺井:制度的にいえば日本にもあります。民法162条「取得時効」によると10年間、もしくは20年間その場所に住むと、その場所は自分のものになるという規定がある。*1 通常は20年間ですが、悪意なく自分のものだと思い込んでいた場合は10年短くなります。もちろん思い込んでいた根拠を裁判で証明しなければいけないのですが、例えば自分の親父から「この建物の権利はお前に譲る」と言われたとか「実際に契約書があるが、実はハンコが偽物で適当な誰かに無理やり押されているだけで無効だった」とか。日本でここまでやっている人は見たことはありません。オランダでは、1960年代に都市部の住居不足の解決策として使われていない建物、具体的には1年以上空いており、使用されていない土地建物については占拠しても罪に問われないという法律ができました。鍵を付け替えて、1年間その鍵が使えたということが1年間空き家だったということの証拠になるそうです。しかしながら2010年に法律改正され、違法となってしまった。
本当に所有権が移ってしまうので権利を持っている人からしたら結構怖いことですよね。久しぶりに自分の実家に行ったら、所有権が知らない人に移っていることがあるわけですから。

新里:1年以上使っていない土地に対して、自分の権利なのにどうして奪うんだ!みたいなことを言うのもまた変だなと。買ったけど1年間使ってないノートや傘も1年間使っていなくて、じゃあ俺が持っていてもいいよねと言われたらいいよと私は言ってしまう気がします。

◎広場をパブリックとプライベート、日本と西洋の視点から考える

◯日本人固有の意識や文化性が、どのように制度や空間に影響しているのだろうか。

伊藤:土地は自分で取得するものであるという意識があるかどうか。それが、所有権を始め、根本的な制度とセットになってるような気がしています。ヨーロッパでは、誰かがその土地を使っていないのであればその土地を自分が獲得しに行くことは権利として認められている意識がある一方で、日本はそれを代々受け継ぐとか誰かが所有しているという前提の意識があるように思います。「うち」と「よそ」は分かれている。
詭弁的な仮説かもしれませんが、パブリックなスペースを自分のものとして楽しむカルチャーが、この国にはそもそもないのではないかと思ったことがあります。大きな公園を余すことなくエンジョイしているのは住民より海外からの観光客の方が多いような感覚がある。社会学者の南後由和が日本の広場に関する論考を書いているのですが、そこには西洋の広場は計画や権力によって1から作られているのに対し、日本的な広場は神社の境内や祭りのときだけ使われる一時的な広場だと記されています。イベントのようなソフトウェアをぶつけることによって、誰かの場所が急に広場になり、それが過ぎ去ると広場ではなく誰かの空間に戻ると。「広場」を考えるときには文化性や意識が影響するのだろうと思います。のびのびとした「広場」を都市で作っていくときには、日本独自のインストールの受け皿を作らないといけないんじゃないかと考えています。

西山:日本独特のという点でいうと、パブリックとプライベートの境目が曖昧だったという点も制度や空間に影響しているのかもしれないと思っています。入会地(いりあいち)、例えば家と家に囲まれた庭や道はパブリックとプライベートの間に位置する空間として生活のなかに存在していました。自分たちのものだけれど、固有の誰か“だけ”のものではなく、かといって公のものでもない伝統的なコモンズ(共有地)は、現代ではどんどん減ってきているそうです。昨今の日本でいう「パブリック」とは「私たちのもの」ではなく、行政に管理されるものという感覚が無意識のうちに根付いてしまっている。だからこそ主体性をもって入りにくくなります。好き勝手はできないけれど、その代わりに掃除も面倒も世話も必要がない。

寺井:入会地と呼ばれる村や部落の共同利用が認められた土地は、そのコミュニティに属するみんなのものではありますが、逆にそれは他のコミュニティの人には一切触らせないぞということであります。村の家畜を飼っていたりするけれどそれはあくまで村の資源なわけで、他の村の人には分け与えず、閉鎖的に運営されているし、運営にはコストがかかっています。よそ者を排除しているからこそ、その村の人たちにとっては広場になっているわけです。
また、デザイナー原研哉氏のトークイベントの記事のなかで述べられていた神社に関する話が印象に残っています。それは日本の神社と欧米の宗教施設は設計の仕方が逆だと。欧米は施設の真ん中に偶像を置きますが、神社には何もない。大きな箱が飾り立ててあっても、そのなかには何もない。でも日本人の感覚ではそれが神様であると理解できる。何もない「空」が日本の本質であり、何かがあるのが欧米の本質。これは公共空間にも影響しているように思います。

◯境界線が曖昧なまちと明確なまちは再統合できるのだろうか。

西山:寺井さんは以前渋谷で合法的にグラフィティを描けるリーガルウォールのオーガナイズをされていたと思うのですが、プライベートな行為であるグラフィティをパブリックな場で合法的に実現できるという試みを実施されていました。公と個人を繋ぐ活動にもさまざまなものがありますが、なぜ壁画に着目されていたのでしょうか。

寺井:壁画は家と道路の境目にあります。道路にはみ出たら公共ですが、家は民地です。道路使用許可は取るんですが、民地側で行われている分には自由に制作できるんです。公共の場と限りなく近いところかつ公共の場から目に入る場所にあるので、民地の場でも公共に染み出すことができるんですよね。

◎広場を活用するためのプレイスメイキング

◯我々は場を使い倒すためのスキルをもっているのか。

寺井:公共空間とは、誰のものでもないという解釈もできるし、誰のものでもあるという解釈もできます。しかしながらこの前提に対して、心のどこかで誰のものでもあるけれど、誰のものでもよくないと思う人が増えているようにも思います。その場になにか貢献しなきゃいけないと思うわけですが、貢献の仕方がお金ではないのでどう貢献したらいいかわからない。その貢献の仕方の一案が、まち作りや建築の用語でいう「プレイスメイキング」の議論なのかなと。プレイスメイキングとは、都市生活を豊かにするための場のデザイン手法のことですが、ただ場をつくるのではなく、一人ひとりがその場をどう主体的に過ごせるかを選択できる場所作りを促しています。つまり、主体的に自分なりに工夫を施しその場を使いこなすこと。そうすることでこの場所に自分がいていいと主張できること。それこそがプレイスメイキングであり、それは具体的なスキルです。そのスキルがあれば一人ひとりが「ここは自分の場所でもある」と主張しながら、みんなの場所でもある場所になっていく。その工夫や主張ができないと、誰のものでもない場所になる。また自分がその場を工夫して過ごす権利があるという感覚をもっていることが重要です。
事例を2つ説明すると、まず松戸にさくら広場という学校に行かない子どもたちの居場所があります。家賃がかかっていますが、コーヒーの焙煎をし販売することで家賃分はある程度賄われています。そこでは焙煎した豆のパッキングを子どもたちが手伝っている、というか手伝う羽目になります。手伝ってくれるんだから子どもたちが遊びに来てもいいじゃんと店主が心のどこかで思っている。子どもたちも焙煎まではできないけれどパッキングくらいは手伝えることがわかっている。さくら広場では子どもたちが貢献をすることでその場にいることが許可されるような場を店主が緩やかにデザインできていて、結果的に子どもたちがわざわざ遊びに来るんです。
もう1つが、駅前のデッキでクラフトビールを飲むイベントを企画した時の例です。そのイベントには酔っ払っている青年が8時間ぐらいふらふらしていて。彼はセットアップのジャージでうろつき、片手に缶チューハイをもって、周囲の人に乾杯と声かけたり、ハイタッチしたりして絡んでいるんですよ。女性にも絡んでいるので要注意と運営スタッフに伝えましたが、本心ではその場から出ていって欲しかった。なぜなら、彼が缶チューハイを飲んでいることでその場に持ち込みOKという認識が広がってしまう恐れがあったから。しかしそこは広場なので追い出せない。終わってみて思ったのは、もし彼が話が通じる様子だったら、イベントで販売しているクラフトビールを買ってあげる代わりに、いろんな人に乾杯をするという役割を与え公式のアンバサダーにしてしまうこともできたなと。それができれば僕は彼を追い出したいと思わず、この場所にいてくれと前向きに言えた気がするんです。逆にいうと、彼が僕に「俺を乾杯大使にしてビールを奢るべきだ」と言ってくれたら、僕も気がついたと思うんです。というのが僕のなかの彼のプレイスメイキング案です。とはいえ、一人ひとりが広場においてプレイスメイキングできるスキルは今の日本にはおそらくありません。それを持つことが重要だと思います。

M.E.A.R.L.の「複数的な「場」の創出が人々の自由を促す ──サイトプランニング / プレイスメイキングの専門家・渡和由インタビュー」にも掲載されていますが、筑波大学准教授(当時)の渡和由先生にイベントの様子を見て回ってもらった時、椅子を椅子として人が使っているうちは「プレイスメイキング」としては椅子がまだまだ足りないと言われました。椅子が椅子じゃなくなる瞬間まで椅子を提供することが大事で、椅子を足置きにしたり荷物置きにしたり、何でもいいけれど違う使い方が生まれることが大切だよとおっしゃっていた。これらのことを考えると、日本で広場が活用されていくためには、広場に対する僕らの意識改革と自分たちが広場を使いこなそうとするモチベーションが必要で、さらにそれ自体は悪いことではないという社会的な合意も作っていかなければいけないと思います。

増田:イタリアのパルマに、5〜6人が一気に座れる長い緑色のベンチが何台も置いてある公園がありました。そのベンチのまわりには定年後おじちゃんたちが7〜8人くらい集まり、段ボールでできたボードゲームをやっていたんです。その公園の周りを歩くと、彼らの一喜一憂の奇声が響き渡っている。手作りのボードゲームいいなと思いつつ、次の日朝9時ごろにその公園に行くと、また同じ場所で同じようにゲームをしているわけです。彼らにとってそのベンチはゲームをする仲間との集いの場になっている。そしてそれはベンチの使い方や遊びのよき事例になっていて、しかも大人が騒いでいるのだから、子どもたちがいくら騒いでも怒られることはない。自由な雰囲気がある公園だったのですが、そういう場所で育つからこそ、なにもない場所でも自分たちでその場所を楽しもうとするクリエイティビティは生まれるのかなと思いました。

◎広場という拠り所が発生すること

◯広場らしい広場が生まれ育たないのはなぜか。

細川:このあたりの広場をGoogle Mapで調べてみると、なかなかの周辺には、公園のような広場と駅前広場、防災広場があります。防災広場は法的に災害などから守るために設置された広場だそうです。調べると防災広場という名がついている広場が結構ありますね。広場と言われてどこを思い浮かべますか。

増田:海外には広場という名がつく有名な場所がたくさんあるのでイメージが湧くのですが、日本では公園はあっても広場という具体的な場所があまり浮かばないように感じました。神社の参道などは広場にあたるのかもしれないなと。

新里:歌舞伎町タワーの前に広がっていた広場(現在閉鎖されている)が浮かびました。

西山:私の広場のイメージは、例えば屋上にある駐車場や子どもたちの遊び場になっているような開けた道や近所の人同士が集まって井戸端会議が生まれる住宅街の路地。各々異なる時間軸のなかでそれぞれの営みを行っていてなにかを販売している人や遊んでる人もいる、それらが交わるような往来がある場所が浮かびました。でもいわゆるThe 広場といえる場所は日本では確かに少ないかもしれませんね。

伊藤:トー横界隈や歌舞伎町の広場など民度が低いと言われる広場は、集う人たちの拠り所になっているのではと。社会のどの機能も彼らに対してアプローチができないのでそこに広場が生まれてしまう。それを可能にするのは、都市の地理的な特徴や建物や敷地の形など物理的な条件。そこに広場としてのアフォーダンスがあったから、その場所を発見した人がいて、遊び場に変えていった。そのプロセス自体はある種のクリエイティビティを伴っていて間違っていないと思うんです。ですがその後の使い方次第で迎える最悪のケースは、閉鎖されてしまい集まれる場所が失われるということです。今の新宿西口は「通路」と呼ばれていますが、1970年代の政治闘争のときには「新宿西口広場」という名前だったんです。建築家・坂倉準三が設計したコンコースの地下に入ると、すごく広い空間がある。そこは政治闘争のときに、フォークソングを歌ったり、反戦を訴える学生運動の拠点で、その場所から多様な活動が生まれた場所だったんです。セキュリティ側からしたらその場所は「悪」なので、そこは広場ではなく通路ですとなってしまう。広場が失われることに対するリスクヘッジを行っていかないと、この国に広場は生まれないし、定着しないように思います。そのためには「缶チューハイをやめてクラフトビールをもち乾杯大使へ」のようなプレイスメイキングを個人のレベルだけではなく社会のレベルで行うこと。そしてどう不特定多数の他者と関わりながら広場を維持できるのかという問題に向き合う必要が出てくるかもしれません。

*1 民法162条「取得時効」
(1)20年間、「所有の意思」をもって、「平穏に、かつ、公然と」他人の物を占有した者は、その所有権を取得する。
(2)10年間、「所有の意思」をもって、「平穏に、かつ、公然と」他人の物を占有した者は、その占有の開始の時に「善意であり、かつ、過失がなかったとき」は、その所有権を取得する。

※本記事はmadcity.jp および M.E.A.R.L の共通記事となります

 

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