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MAD City Tour対談 まちはいかにして、散歩道という遊び場に変容するのか【前編】
2023年11月。千葉県・松戸市、松戸駅前エリア半径500mを対象としたまちづくりプロジェクト「MAD City」で2023年11月23―26日、日本の古い節目にちなんで衣服を発表するプロジェクト 「system of petrasancta」による展示会「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」とフィリックス・アイドルによる展示会「都市再神秘化計画」が開催された。
system of petrasanctaは、古くから中国、日本に伝わる季節の区分「七十二候」(しちじゅうにこう。1年を72に分割する季節の方式のこと。二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間をさす)に着目し、原則年6回のペースですべての「候」をテーマにした作品を発表してきた。第6回目となる今回は11月22―27日を指す「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」をテーマに、M.A.D Center内で展示を行った。同期間中、この展示に呼応するような形でフィリックス・アイドルは展示会「都市再神秘化計画」を開催した。「MAD City」公式Instagram上のオンライン展示に加え、松戸市内にある和室アパートを使用したオフラインの展示を行った。
松戸に在住しながら活動する両者は、街をぶらぶらと歩きながら感じとるような、ある種の質感を具体的な例に挙げながら今回の制作について語った。意味の実在/不在を横断するように、遊歩する者の眼差しを前提とする両作品は、共鳴しつつ互いに独立した展示作品を生み出すことになった。そもそもなぜこれらのプロジェクトが同時に開催されているのか、そのきっかけや経緯から、松戸という街を彷徨い歩く身体と作品の関係性について、プロジェクト支援や不動産サービスを介してまちづくりを行う「MAD City」の目論見も交えて話を聞いた。
前編では展示開催のきっかけ、制作する中で見えてきた松戸というまちについて紐解いていく。
Text:Jumpei Ito
Edit:Moe Nishiyama
Photo:Yoshiaki Suzuki
◎「system of petrasancta」: 季節という時間軸の再身体化
——MAD City Tour 「虹蔵不見」は「七十二候」という現在の時間軸では捉えにくい季節のリズムを目印とし、松戸という土地に張り巡らされた、訪れてみないとわからないテンポラリーな地点をパラレルに結んでいく点がとても興味深いと感じています。「system of petrasancta」の活動が本プロジェクトの発端になったと伺ったのですが、そもそも「七十二候」という季節の区分けを取り入れられたきっかけや企画の趣旨についてあらためて教えてください。
system of petrasancta(以下、sp):松戸に引っ越してきて、今3年ほどになります。spの活動の他に、本業として自らのアパレルブランドで服をデザイン、制作しているのですが、コロナ禍を経て、それだけでは消化しきれないような事柄を実践しようという思いと、より「生活」に近いところで服作りをしてみたいというモチベーションが発端となり「system of petrasancta」を始めることにしました。
アパレルブランドとして服をつくる仕事との大きな違いは、作品の発表をする周期。「system of petrasancta」では日本の旧暦に合わせて、季節をきめ細かく分類した上で、作品の発表回数を原則年6回行うようにしています。背景として、ブランドとマーケットの関係性、日本でファッションブランドを続けていくことや、洋服を作っていくことの状況が近年変わってきていると感じていて。これまではそれなりに小さいブランドであっても対応するマーケットがあったり理にかなっているところもあり、コールアンドレスポンスの関係性も成り立っていました。日本では産地や卸先の豊富さ、若者のファッションへの意識の高さなどの観点から、比較的若手のブランドが創業しやすい背景が揃っていると言われてきました。ですがコロナ禍を経て、僕らみたいなブランドが「日本でやっていく意味はどこにあるのか」と考えさせられるようになりました。日本でアパレルブランドを続けていくためには、そもそも日本という土地の性質に合った方法で作品を発表したり、作ったりする必要があるのではないかと。その時に、いわゆるアパレルでは慣例的にランウェイのショーが開催される「SS(Spring Summer)」 「AW(Autumn Winter)」のような分節とは異なる時間軸のなかでモノづくりができるのではないか、そしてそれは「良いこと」なのではないかと思うようになりました。
フィリックス:「SS/AW」みたいな慣習がある一方で、そもそもそうした区分のようなものに縛られずに、作品を随時作って随時発表するという新たな流れもあると思います。そうではなくて、季節という区分に沿ってつくるというルールを設けた理由は?
sp:なんというか、それが日本で服をつくる意味の一つでもあるのではないかなと。季節の区分を取り入れることが、僕自身のルーツとも繋がっていくと思っているんです。もともと実家は事あるごとに飾り付けをしたり、「風習」をとても大事にする家でした。冬至の日は、冬至カボチャを食べる。子供の日は菖蒲をお風呂に浮かべる。初物の食材を使った料理が出てきたら、食べる前に東の方を向いて笑ってから食べなさいっておばあちゃんに言われます。僕はそれを当たり前だと思っていて、友達の家でやってたら、笑われたんですね(笑)そうした経験もあって古風な家の感じが嫌だったんです。なんだかちょっと恥ずかしかった。慣習的なことをやらないモダンな家の方がかっこいいなって。でもいざ自分が親になった時、家族でそのような時間や体験を共有することはとても豊かなことなのではないかと思うようになりました。もちろんもともと嫌だとは思っていたんですけれど、今考えれば貴重な体験でしたし、僕の美意識の根源の一つになっていると気がつきました。自分なりのスタイルで、近代以降の日本のカレンダーから抜け落ちているようなスケジュールの感覚や時間軸を取り戻していきたい。「system of petrasancta」というプロジェクトはそのための一つのツールという感覚があります。通常のアパレルブランドであれば、ある時点で受注したものを3、4ヶ月後に売るという時間の流れになります。ですがある節目をもって何かを着るという行為自体が、冬至カボチャを食べたり正月飾りをつけるように、もっとオルタナティブなスタイルになっていったらおもしろいかもな、と。
もちろん、たくさん作ってたくさん売っていくには、ある程度先読みをした時間配分、効率的なスケジュールが必要です。例えば事前に生地の生産を工場に依頼しなくてはいけなかったり、業務を機械的にこなしていくことによって、大量の製品を作りクオリティを担保していくことが可能になります。しかしそうしたラインが自分のファッションに対する探究心や実生活のリズムとはもう連動しなくなってきているとも感じています。本気で効率化をしていくのであれば、本当にものすごい量をつくらなくてはいけない。でも僕らは、そんなに作る必要はないじゃないですか。なのでそうした問題意識に対して課題解決の一つの方法になればいいなという思いもあります。
寺井:年に2回で済むところ、年に6回アパレルの展示会をするという話を聞いて、最初「この人はなにを言っているのんだろう」と思ったんですけれど(笑)、お話を聞いているうちに、長期的には合理的な試みかもしれないと共感しました。工場やバイヤーなど、複数の関係性のやりとりを含めて、ファッションビジネスの展示スパンをはじめとした構造自体がいつか変わるっていうのは「そうだよな」と思っていたので。僕は基本的に「短期的に不合理だけど、長期的に合理的なもの」が好きなんですよ。本当に合理的なことを考え進めると、スケールが例えば百年単位になることもあります。それは一般的には現代の資本主義的な時間スケールでいうと非合理なことかもしれない。僕はそういう物事がものすごく好きで、基本的にはそういう仕事をしたいなと思っています。いずれにしても、今後も年に6回展示をやることになると思うんですが、開催していくなかで、松戸というまち自体が豊かになるようなやり方のほうがspにとっても良いだろうと思っています。それは僕らにとっても良いことです。まちに関することで何か一緒にできるんじゃないかと。
◎不動産会社的会話と制作:Power of 10+、まちづくり的10の3乗を松戸で
——今回system of petrasanctaとフィリックス・アイドルさんそれぞれが、作家として個別に展示するということもできるのかなと思ったのですが、松戸という一つのフィールドが二者を繋いでいるのが面白いと感じました。どのような観点、どういった経緯を経て三者が接続されたのか。まちづ社として寺井さんいかがでしょうか。
寺井:「MAD City」は、もともと「不動産」を介して地域的なまちづくりをしています。いわゆる不動産業では、通常物件を貸したら、貸しっぱなしになりがちで、あとはクレーム処理のようなやりとりしか行わないことがほとんどです。まちづ社の場合は「何か一緒にできることがあったらいいよね」といつも思っていることもあり、入居者を日常的になんとなく眺めていて、貸した人が何をしているのかみたいなことに興味を持つようにしています。前提としては、契約情報などに問題があれば、やりとりしましょうっていう感じなんですけれど、ありがたいことに、「最近何してるんですか?」と入居者の方々とは定期的に連絡を取る機会もちょくちょくとあります。記憶が定かではないのですが、今回もそうした会話が発端になり、確か「空いてる場所ないですか?」というようなニュアンスの相談を受けたことが発端だったと思います。
まず僕たちが、不動産会社として、余っている場所を持っているという前提があるんですよね。借りられる物件がいつも余分にないと貸すこと自体できなくなってしまうので、実際には常にある程度、場所が余る構造になっています。余っていることは良しとして運営しているんですけど、それに気付かれてしまう。気付かれるというか、うまく気付いてくれると、その人たちが「使いたいんだ!」という話になるわけじゃないですか。今回も最初は「いい感じの場所ないですかね」といった相談をされたのがきっかけ。
まちづくりの会社って大体まちの案内ツアーなどを企画したりするんです。商店街のようにお店が集まっているならそこをツアーしようとなるんですけれど、そもそもMAD Cityのもつ物件にははじめお店がありませんでしたし、「アーティストにスタジオと家を貸します」ということから不動産を始めてしまったので。以前から松戸で「MAD City」の活動をしているというと「いつ行ったらいいですか?」と聞かれるパターンと「行ったけど何もなかった」って言われる2パターンがセットになっています。実際、僕自身仕事の都合上、クライアントやリサーチで訪れる人に向けて松戸のまち案内をすることもあります。本当はもっとわかりやすいツアーのパッケージがあっても良いのかもしれませんが、これから自分の仲間になっていく人だと仮に想定したときに、例えば手ぶらで松戸に来て「ぱぱっと適当に歩いみたけどよくわからなかった」で帰ってしまう人だったら全然つまんないなと思います。もっと路地裏とかに入り込んだりとか、何かを見つけてくれよみたいな気持ちもあったりします(笑)。情報もガイドもつけて何から何までサポートした上で出会う人って、あんまりピンとこない。勝手に自分で色々探してもらう、ぐらいのニュアンスだったら関わりやすいですし、僕らの趣旨とも合っているように思います。
「Power of 10+(パワー・オブ・テン) 」というまちづくり、とりわけプレイスメイキングに関する理論があります。アメリカはニューヨークのPPS(Project for Public Spaces)による研究から出てきたものなんですが。端的に言うと「10個のエリア」と「10個のスポット」と「10個のスタイル」が10の3乗になると、まちはやっと人が行きたくなる場所になるという理論です。ニューヨークのマンハッタン島を10個のエリアに分けると10個のエリアの中に10か所ぐらいのスポットがある。さらにそのスポットの中にそれぞれ10種類ずつくらいの過ごし方、つまりスタイルがある。チェーンの洋服屋に行けば、やることは商品を買うことくらいですが、例えば公園だとぼーっとすることも可能ですし、友達とお茶するのもあり。暑いから涼んでるっていう人もいます。とにかくその人が自分で何か居場所を見つけることも含めて、10個ぐらいの機能があったほうがよくて、それをまちづくりで実践していけば、行きたくなるようなまちになるという話です。
まちづくりをする個人としては「Power of 10+」のようなモデルで考えれば、松戸の「MAD City」は1つのエリアなので、その中に10か所のスポットが点在してればいいなと思っています。スポットの過ごし方には「公園でどう過ごすか」ぐらいの緩やかさやワイルドさのあるものがあっても、それが積み重なって複数のスタイルがある場所になっていけば、まちにとってはちょうどいいのではないでしょうか。今回の試みもそうした実践の一つとして位置付けられると思います。
◎「七十二候」:古来からあった時間感覚を回想に基づく自分なりのやり方で取り戻すこと
ーーあらためて「七十二候」というテーマと制作について聞かせてください。
sp:今回は「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」が展示の名前になっています。日本には古来から、一年を七十二個に分けた「七十二候」という日の区切りがあって、それぞれに天候の事象や物の動きにフォーカスした名前がついています。例えば「雉始雊(きじはじめてなく)」とか、「蚕起食桑(かいこおこってくわをくらう)」など。「虹蔵不見:11/22-27」というのは、虹が見えなくなりはじめる時期を指します。冬空は虹が出にくいのですが、なぜか「虹」は冬の季語になっています。たまに出るからこそ虹が美しく感じられ、詩を書いたり俳句を詠む人がいるのだと思います。僕が個人的な記憶からこの期間のことを考えた時に、ちょっと手が悴み始めたりする寒い時期を思い出しました。一番最初に思い浮かんだのは高校時代のことです。家から8キロほどの通学路を毎日自転車で通っていたのですが、帰り道がとても寒い。部活で着たヨネックスのウィンドブレーカーを重ねて着て、友達と自転車をずっと漕ぎながら帰っていた記憶が印象に残っています。その時の感覚を今回の展示空間で表現したいと思い、僕のティーンの頃にフォーカスした服を作れたらいいな、というのが制作のきっかけです。今回の展示では、当時実際に着ていたヨネックスのウィンドブレーカーにもう一度手を加えるということもしています。高校時代、バドミントン部に所属していたこともあり、練習の際はヨネックスの製品を身につける機会が多くありました。僕にとって10代の記憶とは切っても切り離せない存在であり、特に寒い中ヨネックスのウィンドブレーカーを着て自転車で帰った長い道のりはハイライトでもあったように感じています。実家に戻った際に箪笥にしまわれていたこの服を見たことで当時の記憶が蘇ったことから、この服にまとわりついている情景を起点に制作をすることにしました。
一方で、同じ会期中に展示をするフィリックスさんの作品を踏まえてどう制作を組み立てるかということも考えました。彼の作品で取り上げられる場所は、まちの中で必ずしも全員が着目しないような場所であったり、視線をスルーするような場所のように感じられ、そこがすごく良いなと思っていました。
◎フィリックス・アイドル:自らが「塊魂」的になることで、「非-場所」から逃れ、再構築する。
——フィリックスさんが参加したタイミングはいつ頃だったのでしょうか?
寺井:フィリックスさんが借りている物件の契約更新のタイミングで「最近どうしてるんですか?」という声掛けをしたのがきっかけだったと思います。「MAD Hodgepodge Orchestra」の時もそうでしたが、僕らがアーティストの人たちと制作のことを話す場合、契約更新のタイミングが多いです。当初は「Instagramでやってみよう」という話になりましたが、会話を重ねるうちに、様々なアイデアが出てきてリアルな場所でも展示をすることになりました。今回展示を行った花井ビルは、ちょうど僕らも使い方を模索していた物件です。フィリックスさん自身、アートのみならず、音楽やアパレルといういろんな要素が混じり合っている人なので、相乗効果が生まれると思いました。最初に「リミナルスペース」の話をしたことを記憶しています。
フィリックス:「リミナルスペース」というのは、簡素で不気味な雰囲気のある、モノとモノとの境界のスペースのイメージが強いと思いますが、このプロジェクトを作っている中で寺井さんに説明するために借りたそのキーワードも違うなと言うことに気付きました。僕のプロジェクトでとらえようとしていたのは単に空間だけの話ではない気がしていて。モノとモノの間もそうですが、あるルールが重なったり、なくなったり、緩んだり、うまく理解されなかったりした場合に出てくる「状況」のことでもあるのではないかと思っています。僕自身は、例えば廃墟や廃車を観たときに感じるような不思議さに関心があります。松戸に引っ越してきて、街中を散歩しているなかで、通常は目に触れる機会がないけど、風景の規律やルールを破っているようなモノを発見するのが面白いと感じます。それは精神地理学やマルク・オジェの「非-場所」についての考え方とも似ていると思います。「塊魂」のようなもので、自分がいろいろなモノを巻き込んで街を転がり回っていて、自分なりの意味を作っていく考え方です。このプロジェクトのルーツを辿ると、過去に開催した「精神地理学」的なものと「塊魂」を合体したテーマのイベントに繋がります。そのときの映像で使用したアセットを今回のプロジェクトにも一部使用しています。そうしたテーマを調べたり、模索したりしつつ、自分でもわけのわからないビデオアートを、オフラインのスペースでも制作しました。
——フィリックスさんがそうした不気味なものをに目を向けながら自身は「塊魂」のように、街中のものをどんどん収集していくとき、そこに集まったモノたちというのは、具体的にはどういう共通点があるのでしょう。
フィリックス:僕が収集しているのはとにかく自分が驚くオブジェだと思います。あるオブジェを見たときに「なぜここにあるのか」、「そもそもこれは何なのか」という問いが生まれるけどもうまく特定できなかったりしますよね。具体的に言うと、子供の帽子が駐車場のフェンスにかかっているその有り様が、すごい目を引いたり。家の近くの新聞配達所の喫煙スペースに小屋みたいな場所があって、中にとても大きな魚の尻尾のようなものがグッと刺してあったりしたのも印象に残っています。松戸市内の矢切の方に行ったとき木の板と石とブルーシートが合わさった謎のモノがあって、周りが田んぼだったので、田んぼに関連しているものかもしれないですが、何なのかは結局わかりませんでした。そういった、よくわからないのだけど、一旦自分が立ち止まってしまう、何か疑問を感じさせるオブジェを僕は対象にしているのだと思います。展示会に際するステートメントでは、オジェの「非-場所」やレム・コールハースの「ジャンクスペース」の話もしていますが、それもあくまで自分が感覚的に街中を歩いて、感じ取ってるものをうまく他人と共有できるように、具体的な理論を残している研究者などの言葉を借りたりしているという意味合いが強いです。
——「都市再神秘化計画」の展示会場である花井ビルに入って状況と対峙した際に、フィリックスさんがおっしゃったように「これはなんだ?」と思いました。作品を鑑賞してみても視線の行き場を落ち着かせることが困難で、普段無意識に自分の中に存在する諸々の前提条件が一個一個外されていく感覚がありました。スマホなどのデバイスを複数組み合わせた構造物も置いていましたが、いろいろな端末を使っているのが印象的でした。
フィリックス:携帯電話の定義が曖昧だった時代のデバイスを使うことがおもしろいと思い、今回使用しています。以前「キッズケータイ」というジャンルを発見したときに、これは可愛いなと思いました。日本では携帯電話の市場でガラパゴス化が起きたため、今はもう国内携帯メーカーは一般の市場からほとんど撤退しているのですが当時は携帯電話が独特な形で進化しました。率直にいうと、iPhoneをはじめとした現在のスマホが均一化されている状態は寂しいなと思います。自分が何かを見ているという気持ちにあまりならない。スマホを見ているということ自体は前提化してしまい、意識されなくなってきているような印象を受けます。だからこそ古くてちょっと変な形のスマホを使ったときに、作品を観た人が、見ている画面のことも意識する可能性が出てきます。それが良いなと思ったというのが経緯です。一般的な美術館の鑑賞形式にみられるホワイトキューブ的なものとは反対の発想をもつ展示の仕方にしたかったという意図もあります。オブジェがスマホなのか、そもそも何なのかわからない状態、見ている自分すらも意識するように制作しました。
◎即席の対策:本来の文脈から外れたモノの姿への注視
——作品を実際に展示会場でみたときに、電話の端末の種類が異なるので充電の仕方や映像のなめらかさにもばらつきが生まれ、それに合わせて流す映像を変えなければいけないというエピソードを教えてくれましたね。デバイスの能力によってオブジェの形態が変化してしまうということ自体がとても面白かったのですが、そういう具体性はつくる中で意識されましたか?
フィリックス:正直、つくる中では意識していない部分もあります。自分の制作のスタイルは、ひたすら大量のモノを作ったあとで、それが最終的にどういう形を取るのかということを整理する、というやり方なので。映像を「スマホたち」に入れてみて「これはこういうサイズで見ると全然ピンとこない」と感じたり「画質を下げないと全然重くて見えない」という状況を調整する作業があります。自分がまちで発見するオブジェも、展示してる形も「即席の対策」という感覚が共通しています。そういう「即席の対策」でつくったモノ、つまり本来の用途とは違う使われ方をしているモノがとても好きです。おもしろいと感じる対象だけでなく、作品にも言えることですが、状況を作る条件が一番大事だと考えています。最初から全てを決めてしまって、こういう作品を作りたいです、というような意欲はなくて、それぞれのモノが発しているニーズと自分がその都度どのようにコミュニケーションするかということ自体に興味があります。
◎松戸は散歩のしがいがある街?:寄り道ができるという余白
——まちの風景でおもしろいと思う対象に共通しているのは、文脈のない異物であるという点だと思います。均質的なフォーマットの風景、例えばチェーンの看板、あるいは郊外住宅の規格、大量生産品みたいなものが、見慣れすぎているからこそかえってその文脈から外れるタイミングに着目してしまうのではないでしょうか。spの話でいえば、自転車に乗って友達と帰るという行為や今回の制作物自体に、資本主義的で大量生産的なありふれた風景のようなものが予感されます。その中で「虹蔵不見」というようなルールをインストールし直すことで、そうした記憶を、改めて再結合したり、もう一度取り戻すというプロセスがあるのではないでしょうか。松戸という土地を歩いたり、松戸という土地でこういうプロジェクトを開催するときに、ある風景と作品との間に生じる関係は意識されますか?
sp:松戸に引っ越してきてからは、東京都内に住んでいたときと比べて散歩をする機会が増えました。昼休みにご飯を食べたあと、そのまま自分のスタジオに戻ればいいんですけど、ちょっとだけ遠回りすることがあります。東京にいた時より散歩のしがいがあると思います。例えば川沿いを歩いている場合、一口に「川沿い」と言っても、ランニング用に整備されたアルファルトの道もあればススキが生い茂ったちょっと不気味さすら感じる道もあります。そういうものが共存していて、歩くたびに印象が違って感じられるのが面白いと思います。ぶらぶらと歩き続けているうちに、道草を食うような時間の使い方は大人になってからしなくなるということに気がつきました。ぶらぶらしていると「これ何の時間?」と我に返ったりすることがあります。行き先や目的のない時間だけれど、なんとなく歩いてしまう。だからこそ楽しいのかもしれないですよね。それを再び自分の生活の中に取り入れられていることはなんとなくですけれど良いことだと実感しています。松戸を歩いてみて、今まで最後にあてもなく歩くことが楽しいと思ったのはいつなんだろうと考えながら記憶を遡ると、中学生時代の帰り道に感じていた感覚を思い出しました。松戸と故郷に似ている風景があるわけではないのですが、その状況に置かれた時の自分の心のあり方が、当時の感覚と近かったからだと思います。僕には川沿いを帰ったという経験自体はないんですけど、そういう時間の浪費の仕方が中学時代の帰り道の感覚と繋がっています。
フィリックス:日本に引っ越してきて初めてフルタイムで働いたとき、自分がゲームのキャラのように感じられたときのことを思い出しました。通勤の移動など、自分が歩いてる道以外は何もないように見える。気になる場所があったとしても忙しいから自分がそこ行く時間もどうせ取れません。だから、そのときは視野が狭くなってしまっていたんだと思います。寄り道や、本来必要のない経路を歩いたりする時間がないと、滅茶苦茶に虚しい気持ちになります。放課後の散歩という経験とリンクしているのは、そういう余白を楽しむ気持ちの有無と関係しているのかもしれません。
◎作品を構成する素材に「手を加える」というプロセス
——放課後の散歩や寄り道は、ある意味で普通の道を遊びの場所に変える行為だったのかもしれないですね。フィリックスさんの展示の映像作品では、3Dモデリングした風景を再び、ぐるぐると動き回るというものがありました。あれも一種の「遊び」のように感じられました。
フィリックス:例えば「マジックリアリズム」というフィクションのジャンルがあります。ファンタジーの一種ですが、魔法などの超現実を現実の一環として表現します。ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』という小説では、魔法が使える人や、現実ではあり得ないほど長生きしている人が登場したりします。「マジックリアリズム」において、登場人物は超現実を自明のものとしてあくまで普通に生活します。今回自分が作ろうとしていたのは、もっと自分が発見した現実的なモノの、フィクションとしての可能性をより引き出した作品でした。なので、ちょっとあり得そうだけどあり得ないように見せるために「手を加える」ということを意識しました。みんなに「マジックリアリズム」的な見方をしてもらったら、もっと街の中を楽しめるのではないでしょうか。誰もが何かを見ようとして街を歩いてるわけではないと思います。ですがそういう発見のおもしろさを主張するということに興味があります。
——「手を加える」という話でいうと、spの展示にあるナイロンが印象的です。部活のとき着たようなウインドブレーカーをまず実家からもう一回持ってくるという行為や記憶のこもった既成品に手を加えて、生活する土地である松戸にぽっとまた持ってきてしまうそのプロセスが興味深いです。既存のモノに手を加えるということについては、どう考えていますか。
sp:まさにフィリックスくんがやってたみたいな手の加え方を、多分、僕は僕の服を作る中でやっていたのだと思います。例えば、年代や衣服の種類などによってディテールを調節するというようなリメイクは、衣服づくりではよくあるのですが、あくまでルールに則った理性的なデザインという印象を受けます。ヨネックスのウインドブレーカーなどは、そういう文脈やコードからは絶対出てこないモノだからおもしろいと思います。実家で着ていたときから12年も経ってるので服自体も劣化してヨレヨレになっています。ヨネックスというブランドが持っている文脈や元ネタに近づけて制作するというよりは、今自分がつくることで、どの素材にするか、どう作るかを選択することに興味があります。それはぼんやり街を歩いているときに生じている感覚であったり、「七十二候」のことを色々リサーチしていく中で、いいなと思ったものを眺めている感覚に近いと思います。そういうアーカイブの再解釈そのものが、おもしろいと思っています。服をつくる実際のプロセスだけを説明するとただリプロダクトしているということになるんですけど、制作行為が節目のリサーチと紐づくことで、特定の情景や事象を手がかりに洋服を形にしていく作業となるため、形をトレースするだけのリプロダクションとは違う感覚があります。
[後編につづきます]
※本記事はmadcity.jp および M.E.A.R.L の共通記事となります
プロフィール
system of petrasancta
- 2022年より松戸市を拠点にスタートした、日本の古い節目に因んで衣服を発表していくプロジェクト。
アイドル・フィリックス
- シドニー生まれ。現在は東京を拠点に衣服デザイナー、アーティスト、音楽家、オーガナイザー、翻訳家として活動中。
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