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アートと地域の共生についてのノート 第3回

※このコラムはMAD Cityの入居者に寄稿いただいています。古民家スタジオ 旧・原田米店にアトリエを構える美術作家・池田剛介さんが、今さまざまな論議を呼んでいる「アート」と「地域」について語ります。

連載 「アートと地域の共生についてのノート」

別の「関係性」を考える

前回、台湾での大規模なデモ運動が、私たちがしばしば社会運動についてイメージする反権力的な「敵対性」よりも、むしろ創造性や祝祭性をたたえたものであったことを指摘しました。敵対——連載タイトルに含まれる「共生」から遠く離れているように見えるこの言葉が、今回の議論の布置を形成するいくつかのキーワードのうちの一つとなります。

本連載の第一回目では、批評家クレア・ビショップが論文の中で、カレーやパッタイをふるまいながら観客との関係性を生み出す作品を批判していることを紹介しました。ここでビショップは、こうした「関係(relation)」重視の作品のカウンターパートにあたる位置に「敵対(antagonism)」を内包するプロジェクトを据えつつ評価しています。

この論文で言及されているわけではありませんが、前回紹介した「リビング・アズ・フォーム」展に含まれている《中絶船プロジェクト》は、ビショップの考える敵対なるものを非常にクリアに体現しているように思われます。中絶手術を行うためのコンテナを積んだ船が港へ近づくと、そこに集まった人々と船との間には、「中絶」というイシューをめぐる極めて明快な賛成と反対の対立構造が現れ、騒乱的な場が巻き起こっていきます。こうして特定の政治的争点が衆目を集めることで社会的な議論が喚起されることとなるわけです。

ビショップはこのような、ある論点をめぐって敵と味方とに分かれた対立構造、すなわち敵対を通じてのみ民主主義は可能だと考えます。どういうことでしょうか。敵対のない場では、何らかの権威や制度のような、既存の秩序によってもたらされる同調性(日本的に言えば「空気」でしょうか)がその場を支配するばかりであり、そうした秩序によって排除される現実的な諸問題は明らかにされることがない(それをやればKYということになる)。そうではなく、あるイシューに関して様々な信念や利害関係をもつ人々が対立し敵対することでこそ、政治的な争点がその都度に可視化され、民主的に開かれた議論が可能になる、というわけです。

一方で「関係」重視の作品は、一見したところ人々に広く開かれているかのような場を演出しながら、その実そこでは穏健なコミュニケーションのみが許されており、いかなる議論も生み出されることはない。パッタイをふるまう場がまさにそうであるように——こうしてビジョップは、関係的な作品と敵対的なそれとを対置させています。

Living as Form: Socially Engaged Art from 1991-2011(MIT PRESS)

Living as Form: Socially Engaged Art from 1991-2011(MIT PRESS)

しかし前回紹介したソンタグの議論を踏まえて考えれば、「敵対」において私たちは、イシューへの問いや議論の喚起を優先させるあまり、この世界をあまりにも単純化された利害や心情の対立構造において捉えることにもなりかねないでしょう。そもそもそれはソンタグも言うように、アクティヴィズムが最も得意とする方法ではないかとも思われるのです。

ここで私が問いたいのは次のようなことです。共生なるものは、穏健で同調的に開かれた「関係」か、あるいは衝突的かつ論争的な「敵対」か、そのいずれかに収斂する他ないのでしょうか。こうした関係とも敵対とも異なるような「他なる者と共にあることの別のヴィジョン」はあり得るのでしょうか。実のところ書籍版『Living as Form』には、必ずしも《中絶船プロジェクト》に見られるような敵対や社会的イシューへの問題提起によって特徴づけられるものばかりでなく、それとは性質を異にするプロジェクトもまた含まれています。

例えばフランシス・アリスによる《信念が山を動かす時》は、その好例でしょう。ペルーのラマという移民たちが暮らす地域で行われたこのプロジェクトは、砂丘に500名の参加者を集め、彼らは砂山の斜面の上で同じシャツを着て横並びとなり、それぞれが持ったシャベルで足下の砂を手前にかき出しながら進むことで、砂山をほんの少し横に移動させようとしています。移動してどうなるというものではなく、単に移動させるのです。なんとも壮大、いや壮大なまでの不毛さをたたえたプロジェクトと言えるでしょう。もちろん大勢で砂山を移動させるという行為から、なんらかの社会的メッセージやアレゴリーを読み取ることは容易ですが、しかしそれ以上に、行われていることのナンセンスこそが際立っているように感じられます。

* * *

ここで関係性とは何かについて、改めて考えていきたいと思います。気鋭の哲学者、千葉雅也はこうした関係性をめぐる概念である連合(アソシエーション)についてディヴィッド・ヒュームの議論を検討しながら思考しています。

ヒュームの連合説は、非意味的な断片である知覚が、どのように意味化されるかの説明であると言える。ヒュームにおいて、意味の最も根源的なカテゴリーは「因果性」である。おおよそ次のように説明される。知覚=出来事Aの次にBが起こる、AB、AB、AB……という継起の反復において、前者=「原因」から後者=「結果」への連合が、確かになっていく。(千葉雅也『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』河出書房新社、p89)

つまりこういうことです。例えば私たちがコップの中の氷を見る時、それが溶けることを経験的に知っています。こうした認識は「氷(A)」と「溶ける(B)」という別々であるはずの知覚経験が、原因(A)と結果(B)という因果関係として連合(アソシエーション)されることで一つの意味として成立する、と考えるのがヒュームの連合説の基本である、と。

『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)

『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)

唐突な例のように響くかもしれませんが、アニメーション映画『アナと雪の女王』の一場面で、雪ダルマのキャラクターであるオラフはこんな空想を展開します。夏は経験したことがないけれど、ドリンクを片手にビーチに寝そべって、ゴージャスに日焼けして、それはきっと素晴しい時間に違いない……私たちは「経験的」に雪ダルマが夏の暑さで溶けてしまうことを知っています。しかし「空想的」には、それが溶けないことも可能となる。なぜでしょうか。

千葉はヒュームによる連合説を検討しながら、こうした日常の因果性から外れた空想やフィクションを可能にする条件として、連合(アソシエーション)の中にある解離(ディソシエーション)の働きを読み込んでいきます。

ヒュームによれば、「観念のあいだのこの統合原理は、分離不可能な結合力として見なされるべきではない」とされる。(…中略…)連合の解離可能性、それは、ファンシーないしフィクションの原理である。さらに言えば、あらゆる経験は、原理的に、フィクションとして連合され・解離され・再構成されうる。(前掲書 p92)

例えば、「雪ダルマ(A)」と「溶ける(B)」とが因果関係によって強く結びつきすぎている場合、AとBとの間に他の関係は成立しないことになります。「雪ダルマは溶ける、以上。」というわけです。しかし、これら二つの要素を切り離し、分離させることができるからこそ、「雪ダルマ」と「溶ける」の間に否定を差し込んだり(雪ダルマは溶けない)、「溶ける」を「飛べる」へと変化させたり(雪ダルマは飛べる)、といったしかたでのフィクションが成立する。つまり連合の中にある解離の働きによって、AとBとの「別の連合」は可能になると考えられるのです。

『アナと雪の女王』のラストシーンでは、アナとエルサとの和解という基調的なテーマの傍らで、それとは異なる「共生」の可能性が記されています。夏に憧れていたオラフは、魔法をもつエルサが世界に夏をもたらしたことにより、当然の因果というべきですが溶け出してしまいます。多くの生命を生かす夏において、オラフはそこに生きられない固有の性質を持っているわけです。

しかし印象的なことに、ここで世界を夏へと変容させたエルサは、オラフの頭上に雪の降る小さな雲を発生させ、雪ダルマである彼が生きられる場を与えています。これは夏の中にミニマムな断片となった冬を残すことに他ならないでしょう。夏は常識的には暑さという観念と強く結びついており、雪雲をもたらす寒さとは連合していません。しかし何らかのしかたで夏と暑さとが解離しうるとすれば、空想ないしフィクションとしての別の連合は成立し得ます。オラフの頭上に与えられた冬の断片は、通常は夏と因果的に接続されている暑さが断片的に解離され、別様に再結合されたフィクショナルな連合のありようを示しています。そしてオラフが共に生きる世界は、こうした解離・再結合の働きによってこそ可能となるでしょう。

世界が夏として一元化し尽くされてしまうのではなく、しかし夏と冬とが対立するのでもない、夏のただ中に夏から断片的に解離したミニマムな冬が散在すること——フィクショナルな連合を通じて現れるこの世界は、同調的な「関係」でもなく、対立構造による「敵対」とも異なる共生、すなわち「別の関係性」へと向けた一つのモデルであると考えられるのです。

しかしこうした共生のあり方は、アニメーションのような現実の因果、現実のアソシエーションを無視しうる空想の世界でのみ可能なのでしょうか。先に触れたフランシス・アリスによる、こちらも「溶けること」をめぐるビデオ作品は、このことを考えていくヒントになるように思われます。

第4回に続く

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著者プロフィール

プロフィール

池田剛介

池田剛介(Ikeda Kosuke|美術作家)

1980年生まれ。自然現象、生態系、エネルギーなどへの関心をめぐりながら制作活動を行う。 近年の展示に「Tomorrow Comes Today」(国立台湾美術館、2014年)、「あいちトリエンナーレ2013」、 「私をとりまく世界」(トーキョーワンダーサイト渋谷、2013年)など。 近年の論考に「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。

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