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アートと地域の共生についてのノート 第4回
※このコラムはMAD Cityの入居者に寄稿いただいています。古民家スタジオ 旧・原田米店にアトリエを構える美術作家・池田剛介さんが、今さまざまな論議を呼んでいる「アート」と「地域」について語ります。
連載 「アートと地域の共生についてのノート」
アートと「現実世界」との関わりをめぐって
前回、連合(アソシエーション)なるものの検討を通じて空想・フィクションの作用について考えながら、同調的な「関係」とも、論争的な「敵対」とも異なる関係性のありかたを探ってきました。
しかし、こう思われるかもしれません。空想やフィクションは、この現実世界に対する逃避でしかあり得ない。アートもまた美術館やギャラリーといった閉域の外部に出て、より公共的な仕方でリアルな世界と関わるべきである——近年の地域アートの隆盛とも絡み合いながら、とりわけ3.11以降の日本において、こうしたアートにおける社会性や政治性といった問題が注目されるようになってきています。
しかしまた、第二回目で行ったアートとアクティヴィズムとをめぐる検討を経て、アートと社会政治的な諸問題との関わり方は、アクティヴィズムにおけるような直接的な効果を目指す方法とは必ずしも一致しないのではないか、という点を議論してきました。こうしたアートと現実世界との位置関係を、私たちはどのように考えればよいのでしょうか。
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ところで前回言及したフランシス・アリスの代表作に、《実践のパラドクス1(ときには何にもならないこともする)》というビデオ作品があります。9時間もの間メキシコシティの街中を氷のブロックと共に進んでいくというもので、先に紹介した《信念が山を動かす時》のような参加型の作品ではなく、作家自身がひたすら同じ行為を続けています。
この作品もまた第三世界と呼ばれる地域における無益な労働のアレゴリーとして捉えることが可能であり、ある特定の現実世界との強い結びつきを持った作品であると「ひとまずは」言えるでしょう。
パフォーマンス開始の段階では、氷は大の大人がようやく押せるほどのヴォリュームをもち、それを押し進める行為はさながら労働であるかのようです。やがて氷は物理的な因果によって次第に溶け出し、アーティストはタバコ片手に片足で押し進め、終盤にはボール状の小さな氷を両足で軽妙に蹴り出しています。
ビデオ序盤、氷とパフォーマーの身体との間には、緊密な、他に選択のしようのない強い結びつきが形成されています。その後、氷がその体積と重量を減らしていくにつれて、パフォーマーと氷との関係は、よりルーズなものへと変容していくように見えます。その結果としてタバコを吸う余裕が生まれ、やがて両足でテンポよく蹴り出す様には、遊びすら感じさせるでしょう。こうした「労働のようなもの」から「遊びのようなもの」への変容は、現実とアートとの関係を考えていく上でのヒントになるように思います。
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労働と遊び。現代社会においてこの二つはしかし、容易に対置させることのできない関係を取り結んでいます。哲学者、國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』の中で、現代社会において生きるための労働の外にある「暇」とは何かについて思考しながら、社会主義者ポール・ラファルグが掲げた「怠ける権利」という政治声明に注目しています。
ラファルグはフランス二月革命の際に労働者が掲げた要求の中で労働が賛美されていることを批判しつつ、「怠ける権利」を提起しながら資本主義の外に出る意図を語るのですが、國分はこうした主張は「完全に間違っている」と言います。なぜでしょうか。
20世紀の高度経済成長のモデルを築いたアメリカの自動車メーカーであるフォードの労働環境においては十分な余暇が承認されることとなる。なぜか。余暇と休息が与えられるからこそ、労働者は最大限の効率を持って日々の単純な作業に従事できるからです。
「このような生産体制においては(…)休暇は労働のための準備期間である。労働はいわば、工場のなかだけでなく工場の外へも「休暇」という形で続くようになったのである。余暇は資本の論理のなかにがっちりと組み込まれている。」(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、p121)
余暇や遊びまでもが資本によって囲い込まれる。こうしたフォーディズムを経た今、労働と怠けることとを対置させるラファルグの議論は通用しない、というわけです。
さらに國分は、ポスト・フォーディズム的な現在において、余暇との組み合わせで労働者を囲い込むことよりも、人々の消費を促進すべく、あらゆる商品が絶えざるモデルチェンジを繰り返す仕方へと産業形態がシフトしている点に注意を促しています。そこでは同じ型のフォードを作り続けるという安定的な労働形態は成立せず、労働者は常に変動する消費の動向の波に揉まれ続けることになる。必要な時間に必要な場所でのみ仕事が与えられ、その都度の役割に適応していくことの求められる派遣労働が、その現代的な形態の一つとなるでしょう。
こうした議論は現在の地域アートのあり方を考えていく上でも、ひとまずは踏まえておくべきものだと思われます。美術館やギャラリーに作品を展示するといった迂遠な仕方でなく、より地域の中に「開かれた」、「直接的」な観客とのコミュニケーションを志向するアートは、絶えず消費者の需要と連動しながら、その形態をフレキシブルに変えていく現代の労働のありかたを無批判に反映することにもなりかねないからです。地方各地で行われる芸術祭へと期間限定で参入する「アーティスト」に、近年の派遣労働者の姿を重ねあわせるのは、はたして無理筋だと言い切れるでしょうか(もちろん私自身そうした動向と無関係とは言えません)。
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再びフランシス・アリスの作品に立ち戻ってみます。この作品の終盤に見い出される「遊びのようなもの」は、ラファルグが想定するような、労働と対立的に向かい合う位置関係にあるのでしょうか。おそらくそうではないでしょう。
遊びと言ってもそれは、氷を押すという行為を放棄したわけではなく、むしろ氷を押すという労働のような行為に内在しながら労働的な営為から切り離され、かつ氷が消え去るまでの束の間に成立する、ごく断片的なものです。そして、こうした遊びの断片性は、端的に氷のヴォリュームそのものによって示されています。
氷というモノの変化と共に労働のような行為から徐々に離脱しながら、人間と、氷という他なる存在との中間には有限にして新たな関係性が彫塑されてゆく——こうした労働と対置されるのではない「遊び」、この世界に深く内在しながら、しかし断片的に別の関係性へと「遊離」するようなありかたを、私たちはどのように捉えればよいのでしょうか。
政治と美学とを横断しながら哲学を展開するジャック・ランシエールは、社会に対して直接的に働きかけようとするタイプの近年のアートを批判しながら、彼もまた二月革命に関わる一つのテクストを取り上げています。
ある革命的労働者新聞に掲載された、一見したところ「非政治的」なテクスト。ここにおいて雇用者と部屋の所有者のために板張りをする木工職人が、手元で床張りを行いながら部屋の間取りを愛で、あるいはしばし手を止めて窓の外の見晴らしに空想を巡らせる、そうしたエピソードに注目しています。
「この眼差しは腕から切り離され、支配された腕の活動の空間を引き裂き、そこに自由な非活動の空間を入り込ませる。(…)見晴らしを独り占めすること、それだけですでに、「待ってくれない仕事」の空間とは別の空間の中で自らの存在を定めることである」(ジャック・ランシエール『解放された観客』p78)。
労働のただ中で窓の外に空想を巡らせること。こうした労働からの、ある仕方での離脱に注目するランシエールの議論は、一見した所、國分が批判的に指摘するような、資本や消費の構造に囲い込まれた余暇のありようへと通じているように思われるかもしれません。
ここでの労働者の「自由な非活動」は、労働への集中的意識からの逸脱であり、ありていに言えばサボることでもあるでしょう。サボるという言葉が、産業革命の時期に、不満を持った労働者が機械の中に木靴(sabot)を投げ込んだエピソードを由来とするサボタージュという言葉から来ていることはよく知られています。このサボタージュという言葉には、労働者が自らの疎外状況に抵抗すべく木靴を投げ込む、というような能動的なニュアンスが感じられます。
これに対してランシエールのそれには、労働の手前でふと立ち止まってしまうこと、窓の外の景色に目を奪われてしまうこと、といった受動的な響きを聞きとることができるのではないでしょうか。労働者の「自由な非活動」は、必ずしも直接的に、労働や資本の構造への抵抗となっているわけではありません。
こうして半ば受動的に窓の外へと巡らされた空想・フィクションは、どのような仕方で、この現実との関わりを取り結ぶのでしょうか。ランシエールは、こうしたフィクションと政治的・社会的な現実との関係を、アートと政治との関わりへと重ねあわせながら、次のように言います。
芸術から政治への関係は、フィクションから現実への移行ではなく、フィクションを産出する二つの様式の関係なのである。芸術の実践は、その外側にあるとされるような政治のために、様々な意識のあり方や人々を動員するための様々なエネルギーを提供する道具なのではない。だからといって、自らの外へ出て、集団的な政治行動の形式となるのでもない。この実践は、見えるもの、言いえるもの、為しえるものの新たな風景を描くことに寄与する。(前掲書、p97)
こういうことです。アートの外部にリアルな世界があるのではなく、政治的に構築されたこの世界とアートとのどちらもが、それぞれの仕方で形作られたフィクションである。アートは、その外側にある世界に働きかけるための動員(地域活性化?)のツールでもなければ、政治行動にアート的な装いを与えるためのものでもない。ではアートは政治的現実に対してどのように作用しうるのか。それは「見えるもの、言いえるもの、為しえるもの」の領域を新たに描き出すことによってである、と。
一つのフィクションとしての政治的現実とは異なる仕方で、私たちにとって感覚可能な領域を新たに描き出すことを通じて、この世界は別様に組織しなおされうる。こうしたランシエールの主張を、次のように簡素に言い換えたいと思います。「この現実という一つのフィクション」の傍らに、別様のフィクションの可能性を描くこと——これこそアートが現実世界に対して何らかの働きかけを行う、一つの方法であると考えられるのです。
裏を返せば、アートの外部にある現実へと直接的に介入しようとする振舞いは、フィクションと現実との二元論的な区別を前提とする限りにおいて、この現実を既存のアソシエーション、既存の因果の連鎖の中に閉じ込めてしまうことにすらなりかねないでしょう。そんな区別はそもそも存在しない。この世界の社会-政治的な現実は、ある仕方で構成されたフィクションであり、だからこそ、そこから何らかの仕方で解離し、この世界と別様に再連合する、その可能性へと開かれているのです。
* * *
《実践のパラドクス1》は、まさにこうしたフィクションの可能性を示しているように思います。先に言ったように、この作品は、街頭で継続される労働のような営為を通じて、現実世界との一つの結びつきを感じさせます。しかし同時に、氷が溶け出し、その姿を変容させていくにつれ、氷とパフォーマーとの間には有限にして新たな関係性が彫塑されてゆく。労働に強く結びつけられていたパフォーマーの身体は、氷が完全に溶け去るまでの束の間に、この世界とは別の感覚領域を描きなおすこととなるのです。
こうして作品は、確かに既存の世界にその半身を置きつつ、しかしもう半身においてそこから「遊離」しながら、世界の別様の姿を描き出すことになる。単に現実からかけ離れた絵空事としてのフィクションでもなく、アートの外部にある現実への直接的効果を目指すのでもなく——この世界の半身から遊離するように生み出された新たなフィクションは、私たちが作品を見る経験を通じて、この現実世界との再連合、リ-アソシエーションの可能性へと開かれていくことになるでしょう。
→第五回に続く
プロフィール
池田剛介(Ikeda Kosuke|美術作家)
- 1980年生まれ。自然現象、生態系、エネルギーなどへの関心をめぐりながら制作活動を行う。 近年の展示に「Tomorrow Comes Today」(国立台湾美術館、2014年)、「あいちトリエンナーレ2013」、 「私をとりまく世界」(トーキョーワンダーサイト渋谷、2013年)など。 近年の論考に「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。
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