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アートと地域の共生についてのノート 台湾編 第2回

※このコラムはMAD Cityの入居者に寄稿いただいています。古民家スタジオ 旧・原田米店にアトリエを構える美術作家・池田剛介さんが、今さまざまな論議を呼んでいる「アート」と「地域」について語ります。

連載 「アートと地域の共生についてのノート」

「わたし」の外、共生の場——荘子から考える

前回、士林での小さな個展について紹介しましたが、展覧会を終えて程なくしてからわたしは、同じく台北市内の公館というエリアにあるトレジャーヒル・アーティスト・ヴィレッジへと制作場所を移動することとなりました。ここは台湾トップの難関校、台湾大学のある若者の多いエリアです。

荷物を運び入れたその日の晩、一息ついて街中を散策していると、大学が近いからでしょうか数件の古本屋があることに気付きました。偶々そのうちの一軒を覗き、二階へと上がったところ、日本語書籍の並んだ小さな一角に、二冊の荘子に関する本を発見したのでした。老荘思想の荘子。なにか巡り合わせのようなものを感じたわたしは、その場でこれらを購入することにしました。こうした偶然を経て読むこととなった二つの日本語の書籍――ひとつはフランス語からの邦訳――を、これからの考察の足がかりにしたいと思います。

トレジャーヒル・アーティスト・ヴィレッジ。小高い丘の上に、小さな建物がひしめき合う。国民党軍によって建てられた違法建築が残り、現在は芸術村として活用されているエリア。週末は観光客で賑わう。

トレジャーヒル・アーティスト・ヴィレッジ。小高い丘の上に、小さな建物がひしめき合う。国民党軍によって建てられた違法建築が残り、現在は芸術村として活用されているエリア。週末は観光客で賑わう。

ジャン・フランソワ・ビルテールによるコレージュ・ド・フランスでの荘子に関する講義をまとめた『荘子に学ぶ――コレージュ・ド・フランス講義』。この本では初めに、『荘子』のなかに登場する、常人を超えた能力を持つ名人たちを取り上げています。そのうちの一つを見てみましょう。

仕事をしている車大工が手を止めて、本を読んでいる君主に問いかけます。

「貴方様は、何を読んでおいでなのですか」「聖人たちの言説である」と桓公は答えた。「彼らはまだ生きておられるのですか」「いいや、死んでおる」「それでは貴方様がお読みなさっているのは、古人の滓ですね!」(…)「わたしの経験から、そう判断申しあげたのです」と車大工が答えた。「私めが車輪をけずるとき、あまりにもそっと打ちつけますと、それは[木に]はさまってしまいます。強さと緩さの間で、手が見つけて心がそれに呼応するのです。そこには言葉では説明できない技があります。(…)古人も伝達することができないまま、死と共にそれを持ちさりました。貴方様が読んでおられるものは、まさに彼らの滓に他なりません。」(『荘子』天道篇、J・F・ビルテール/亀節子 訳)

ここでは書かれた言葉(書物)と「言葉では説明できない技」との関係が語られています。車大工の「経験」によれば、「強さと緩さの間」を発見するのは手なのであり、そうした絶妙なさじ加減を言葉で説明することはできないし、ましてやそれを後世に伝えることもできない。

こうした君主と車大工との会話に先立ち荘子は、「知る者は言わず、言う者は語らず(知者不言、言者不知)」という、(『老子』の中にも現れる)言葉を記しています。ビルテールは、このよく知られた格言のなかの「知」という動詞を、通常の訳語である「知る=savoir」ではなく「知覚する=percevoir」に引きつけて理解することを提案しています。

フランス語においては、「savoir=知る」という動詞は、確かな事実もしくは確実な知識を対象としていて、知っている物との近い関係など想定していないことが直ちに明らかになる。中国語において「知」は逆にこうした近接性を意味している。「知」はなんらかの形でいわば現存すると考えられるものを常に対象としている。(J・F・ビルテール『荘子に学ぶ――コレージュ・ド・フランス講義』、p26)

こうして荘子における「知」を「知覚」へと引きつけながら、そこにある身体的なレベルの近接性が見出されることとなります。知ることとは、車大工が木という素材との関係において「強さと緩さの間」を探り当てるように、近接している世界をなんらかの仕方で深く知覚することであり、それは何らかの神秘的な真理――しばしば道(Tao)はそのようなものとして捉えられてきた――に結びついているというよりも、徹底して経験的な次元に足場をもつ、と。

ジャン・フランソワ・ビルテール『荘子に学ぶ――コレージュ・ド・フランス講義』(亀節子訳、みすず書房)

ジャン・フランソワ・ビルテール『荘子に学ぶ――コレージュ・ド・フランス講義』(亀節子訳、みすず書房)

ではこうした経験的次元における「知=知覚」はいかに可能になるのでしょうか。ビルテールは、突出した技能をもつ者たちによる知覚の働かせ方を「人のレジームから天のレジームへの移行」として表現します。「人のレジーム」とは意図的・意識的な活動の状態を指し、先の車大工と君主との対話の例で言えば、書かれた言語(書物)の水準にあるといえます。これに対して「天のレジーム」は必然的で自発的、あるいは無意識の状態とされ、後者を前者の上位に位置づけています。

ところで、こうした人のレジームと天のレジームの中間にある特殊なレジームとして、酩酊状態が挙げられています。荘子の語るところによれば、酔っ払いは走っている車から転げ落ちたとしても決して怪我をすることはない。ビルテールはこれを、酩酊による無意識的な状態において人が周りの状況に対して完璧に振る舞う例として捉え、こうした無意識的な状態を人のレジームの上に置くこととなるわけです。「もしも人が酒に酔ってこんな風に完全になれるのなら、天によってどれだけ多くの人が完全になれることか!」(『荘子』達生篇、J・F・ビルテール/亀節子 訳)

こうしてビルテールは、「人のレジームから天のレジームへの移行」を、人為を排して身体のポテンシャルを解放し、知覚を鋭く働かせることによって周囲の物事との「必然的」な関係へと至るプロセスとして捉えます。酔っ払いの例を踏まえて考えるならば、天のレジームとは、いわばシラフな無意識状態とでもいえるでしょう。木と身体との間で「強さと緩さの間」を見つける車大工は、その卓越した知覚を通じて木の中にある「必然」へと至る道を発見することになるわけです。

* * *
さて、ここでわたしが手に取った荘子をめぐるもうひとつの書物、中島隆博『『荘子』――鶏となって時を告げよ』を見てみましょう。ここにおいてわたしたちは、本連載のテーマである「共生」の一つのあり方に遭遇することになります。『荘子』に登場する、荘子と恵子との対話を見てみましょう。

荘子と恵子が濠水のほとりに遊んでいた。
荘子が言う。「鯈魚[はや]が出でて遊び従容としているが、これは魚の楽しみである」。
恵子が言う。「きみは魚ではないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」。
荘子が言う。「きみはわたしではないのに、どうしてわたしが魚の楽しみがわからないとわかるのか」。
恵子が言う。「わたしはきみではないから、もとよりきみのことはわからない。きみももとより魚ではないのだから、きみが魚の楽しみがわからないというのも、その通りである」。
荘子が言う。「もとに戻ってみよう。きみが「おまえは魚の楽しみがわからない」と言うのは、すでにわたしがわかっていることをわかっているから、問うたのである。わたしはそれを濠水の橋の上でわかったのだ」。(『荘子』秋水篇、中島隆博訳、強調は引用者による)

「きみは魚ではないのに、どうして魚の楽しみがわかるのか」「わたしはきみではないから、もとよりきみのことはわからない」――こうした恵子の論理は「他者の経験を知ることはできない」として集約できます。ここで恵子はまず(A)人間と魚という感覚器官や生きる環境をはじめとする差異をもった存在間の共約不可能性を問題とし、さらに荘子の反論を梃子にしながら、(B)あらゆる人間と人間の個体的な差異においても、個別の経験には決してアクセスすることができない、とする。(A)(B)どちらのレベルにおいても、あらゆる存在の経験は、それぞれに私秘的な閉域を形成しており、それらの間を超えることは決してできない、と。

中島隆博『『荘子』――鶏となって時を告げよ』(岩波書店)

中島隆博『『荘子』――鶏となって時を告げよ』(岩波書店)

これに対して荘子はどのように応答しているのでしょうか。とりわけ最後の応答(太字部分)は謎めいています。「他者の経験を知ることはできない」という恵子のテーゼに対して、まず想定されるのは、コミュニケーションという回路を通じた相互理解ということになるでしょう。少なくとも(B)のレベル、つまり人間間で使用される言語というツールは、個人の私秘性へと集約されることのない一定の社会性を帯びたものであり、こうした言語の使用が私たちの経験に少なからず影響を与え、人間同士の経験に共通の地平を与え得ることは容易に想像可能だからです。

しかし荘子の答えは、そのようなものではありません。むしろ「とにかく私が分かったから、分かったのだ」というほとんどコミュニケーション抜きの言明に聞こえなくもない。これは言語による交流や論証を超えた感覚的次元が存在しうる、つまり「考えるな、感じろ」というクリシェめいた箴言として理解すべきなのでしょうか。中島はこのように言います。

「ここ(問答の最後)で荘子が行ったのは、自己の経験の固有性は、他人からうかがい知れない私秘性にあるのではなく、他者との近さから生じるという転回である。強く言えば、私秘性でさえ、「わたし」と他者との近さなしには成立しない。(…)荘子は、他者経験の内容について、「わたしはそれを濠水の橋の上でわかった」と述べて補強する。つまり、「わたし」が濠水という具体的な場所において、魚となんらかの近さの関係に入ったことで「魚の楽しみ」を知覚したのだが、それは、「わたし」にとっては十分具体的であり直接的であり、疑い得ないということである。」(中島隆博『『荘子』――鶏となって時を告げよ』p168)

自己の経験の固有性は、他者との隔たりを前提した私秘性によるものではなく、他者との近さによってこそ生じる。荘子が語るのは、自己というものを確固として自律した閉域として想定するのではなく、特異性をもった個としての「わたし」なるものは周囲との近接性によってこそ生起する、そうした転換である、と。

「魚の楽しみ」を知る上で周囲の物事との具体的な近さを強調する中島による解釈は、何事かを知るということについての経験的な次元を強調するビルテールの議論とも呼応するでしょう。荘子のいう「魚の楽しみを知ること」とは、決して魚についての一般的・普遍的な知を得るということではなく、具体的な場において魚との近さの只中で知覚される経験と切り離すことはできない。

しかしこのことは、ある具体的な場における「わたし」の、いわば当事者としての経験や、その主観的な感覚を特権化するものなのでしょうか。もしそうであるとすれば、「他者の経験を知ることはできない」という論理を再補強することにしかならないでしょう。特異的な「わたし」にのみ知覚しうる経験は、であるがゆえに誰とも共有し得ないという強い閉域を築くことになってしまう。そうではない。桑子敏雄による議論をふまえつつ中島はこのように言います。

「ここで問われているのは、荘子という「主観」もしくは「自己」が前提される以前の事態である。「自己」があらかじめ存在し、それが魚との間に特定の身体配置を構成し、その上で「魚の楽しみ」を明証的に知ったということではない。そうではなく、「魚の楽しみ」というまったく特異な経験が、「わたし」が魚と濠水において出会う状況で成立したのである。(前掲書、p172)

荘子が問題にするのは、他者との「近さ」において成立する何事かであり、そうした近さにおいて他なるものと場を共にする、そのことを中島は「秘密」とも言い換えています。確固たる主観を構成する自己の、その私秘的な経験として「魚の楽しみ」があるのではない。むしろ「魚の楽しみを知ること」とは、濠水という具体的な場で、魚と一つの近さの場を共にする状況において「魚の楽しみ」という秘密が立ち上がり、その近さの経験によってこそ私秘性をもった「わたし」なるものが事後的かつ受動的に輪郭づけられる、そうした事態です。

人為に妨げられることなく自然の摂理に即応した「必然」へと至るものとして知=知覚を捉えるビルテールの解釈を先に紹介しました。しかし「魚の楽しみ」をめぐる中島の議論を通じてわたしたちが見いだすのは、そうした「必然」へと通じた知=知覚ではなく、ある具体的な場を偶々共有している、その偶然性を出発点としつつ「他なるものへの知=知覚」へと開かれる、そうしたヴィジョンではないでしょうか。

他なるものとの近さにおいて成立する知=知覚。その経験的なレベルに基づくことによって「他者の経験を知ることはできない」という恵子の論理を最大限の重みで引き受けることとなる。しかし同時に、そうした近さとしての場は受動的かつ偶然的に与えられることによって、「わたし」の自閉性を超えて、他なるものへとアクセスする通路が開かれることとなる。こうした経験は、ある具体的な場における他者との受動的な遭遇を契機とする点において、他なるものと共にあること、すなわち「共生」の経験であるとも言い得るでしょう。

ある具体的な場において、他なるものとの近さに触発される仕方で「わたし」が生まれなおすこと。しかしこのような経験は、どこででも誰にでも起こるわけではない。そうした普遍的な地平は、あらかじめどこにも保証されない。ある具体的な場において生起するかもしれない、こうした「かもしれない」へと開かれた出発点でしかなく、しかし出発点としてこそ、他なるものとの共生はあらゆる場において生起しうる——荘子による「魚の楽しみ」をめぐる対話は、このような共生のヴィジョンを拓いていると考えられるのではないでしょうか。

次回に続く

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連載コラム「アートと地域の共生についてのノート」

プロフィール

池田剛介

池田剛介(Ikeda Kosuke|美術作家)

1980年生まれ。自然現象、生態系、エネルギーなどへの関心をめぐりながら制作活動を行う。 近年の展示に「Tomorrow Comes Today」(国立台湾美術館、2014年)、「あいちトリエンナーレ2013」、 「私をとりまく世界」(トーキョーワンダーサイト渋谷、2013年)など。 近年の論考に「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。

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