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アートと地域の共生についてのノート 台湾編 第4回

※このコラムはMAD Cityの入居者に寄稿いただいています。古民家スタジオ 旧・原田米店にアトリエを構える美術作家・池田剛介さんが、今さまざまな論議を呼んでいる「アート」と「地域」について語ります。

連載 「アートと地域の共生についてのノート」

グローバル時代に「作品」は可能か? (中)

昨年末の台南での制作を終えて、その後一月から三月までの三ヶ月間、わたしは台北の中心市街地に位置する台北國際藝術村に滞在していました。台北國際藝術村は台北市が運営母体となって2001年に発足した組織であり、日本のTokyo Wonder SiteやBankartとのエクスチェンジ・プログラムをはじめ世界各国にネットワークを持つ、台湾でも最も重要な国際的アート・インスティテューションの一つといえるでしょう。

初めの一ヶ月間、中國文化大学の中国語クラスに週五日通い(むろん自費です)、中国語の基礎の基礎を学んでいました。まっさらな状態から新たな言語を学ぶのは初めて近所の塾で英語を習い始めた頃の10歳になったように楽しく、ずっと学校に通いつめたいくらいでしたが、さすがにそういうわけにもいかず、その後の二月と三月にかけて二つの展覧会の準備をすることになりました。

一つめの展覧会は台北國際藝術村内にあるギャラリー、もう一つは台南中部の都市・台中の國立台灣美術館、どちらもグループ展の中で、近作のインスタレーションを再構成する形での出品です。後者の展示については次回に譲るとして、今回は台北での作品について簡単に紹介してから本題に入りたいと思います。

「日常の只中にある旅」をテーマにした展覧会ということで、キュレーターからは、わたしが2013年にTokyo Wonder Siteにて発表した作品を出品するよう提案がありました。わたしの作品の中でもかなり静かな(あるいは地味な)タイプの作品であり、台北のオーディエンスにどのように受け取られるのか少し不安はあったものの、ギャラリー内の大きな窓のあるスペースに合わせて再制作をすることになりました。結果的には台北の新たな環境の中で、多くの人々に好意的に受け取ってもらえたように感じられ、わたしにとっても様々な点から作品を再検討しつつヴァージョンアップする機会となったように思います。

《Water’s Edge – Taipei》

二重になった目の細かなネットがゆっくりとしたスピードで上下し、下方には浅いプール状のケースを据えています。ここに薄く水を張り、ネットが下に降りた時に水の中に沈み込み、上がる際に網の目の間に表面張力が薄い水の膜を形成し、やがてランダムなパターンを描きながら水が落ちてゆく、こうした動きを繰り返している作品です。ネットと水、そしてネットと窓の外の風景とが干渉し合う、それらの際(きわ)のところに作品経験が生成しているといえるかもしれません。

作品に寄せたステイトメントから引用しておきます。「非日常への旅、そしてそこで見出される大自然や生と死の物語は、ロマン主義における最大のモチーフだった。今回の作品で扱っているのは、しかしそうした人間的なドラマではなく、ネットやボウルといったわたしたちの日常的な世界の周りにあるモノたちによる微細な運動である。非日常へと向かう大旅行ではない、日常のただ中にある小さな旅――非-人間と共にあるこの小さな旅を通じて、わたしたちの生きている世界を新たな角度から観察しなおすことは可能だろうか。」

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* * *

前回のグロイスをめぐる議論を通じて、グローバル化する状況においてアートが否応なく大衆化を強め、絶えず「今・ここ」のアウラを作り出すことへと専心せざるを得ない状況を見てきました。作品=フィクションはもはや成立せず、現実を「指し示す」ものでしかありえない。これは、この世界との同時代性を強調する意味での現代アートが、もはや避けることのできない帰結であるようにも思われます。こうして作品は閉じた(死んだ)ものではなく、絶えず現実の中での活発な生を持ち、かつ同時代性という根拠を得ることとなる。

生きることそのものとしてのアート――これは地域型のそれをふくめた昨今のアートシーンにおいてしばしば認められるスローガンでしょう。ここには何かを作り出すことではなく「現実」の中で能動的に活動することそのものがアートである、という含意があると考えられます。この言葉が用いられる際に仮想敵となるのは、そうした「現実」から乖離した「作品」であり、その非現実性によってのみ成立する「フィクション」ということになるのではないでしょうか。おそらくはここに、現代アートにおける「作品=フィクション」の困難がある。

エリー・デューリングは、こうした現代における「作品」の困難を端的に示す例として、デュシャンの振る舞いを取り上げています。制作という制作を放棄し、カフェに通い、チェスをするだけで芸術家であろうとしたデュシャン。アートに対する批判的な眼差しを突き詰めた挙句に、それが伝統的に結びついてきた制作(ポイエーシス)そのものから縁を切り、芸術家であるという社会的・制度的な実践(プラクシス)にのみ関心が注がれることとなる。

デューリングは、デュシャンを一つの起源としつつ反作品・反ポイエーシス的な傾向を強めていく現代アートを批判の俎上に載せています。とりわけ「関係性の美学」をはじめとするプロセス主義的な傾向や、あるいはコンセプチュアル・アートに代表される脱-作品的な傾向を念頭に置きながら、こうした現代アートはその名に反して、未だに「ロマン主義」的であるというのです。

ここでロマン主義という言葉が出たことを意外に思われるかもしれません。美術の教科書でロマン主義といえば、フランス革命の高揚をダイナミックな構図で描いたドラクロワ《民衆を導く自由の女神》や、あるいは画面大半を埋め尽くすような広大な空とその下に広がる無辺の海の手前で極小の人間が立ち尽くすフリードリヒ《海辺の僧侶》などが典型的な例としてあげられる芸術潮流であり、18世紀末から19世紀前半にかけて勃興したものとして知られています。デューリングは、現代アートが実のところ、こうしたロマン主義の圏内から未だに脱していないというわけです。

ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》1830年

ウジェーヌ・ドラクロワ《民衆を導く自由の女神》1830年

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《海辺の僧侶》1808-1810年

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《海辺の僧侶》1808-1810年

このことを知るためには、彼による独特な「ロマン主義」の定義を踏まえておく必要があるでしょう。

(…)ロマン主義は結局のところ、有限の作品と〈理念〉(Idee)という無限との関係にかかわるある決定として現れる。この決定の本質は、芸術の最も不安定な実現へと至るまで、無限に優位をあたえることにある。 (エリー・デューリング「プロトタイプ――芸術作品の新たな身分」、武田宙也訳、『現代思想』2015年1月号、電子書籍版位置No. 5224) 

ロマン主義のコアにおいて、「作品」の実現は最大限に不安定化され、無限の「理念」の側に優位が置かれ続けることになる、と。どういうことでしょうか。

「理念」とはここでは簡単に、芸術作品を他ならぬ芸術作品――商品やエンターテイメントや知的サービスなどではない――として成立させるための根拠、という程度に受け取っておきたいと思います。例えば、先の《民衆を率いる…》での自由や革命、あるいは《海辺の僧侶》における広大無辺な自然といったものが、作品の理念に当たると考えればよいでしょう。デューリングによれば、ロマン主義は、こうした人間が容易に把握できないほどに大きな「理念」と有限な「作品」との間の関係の取り結び方として特徴づけられる、ということになる。

《海辺の僧侶》を例にとってみましょう。画面大半を埋め尽くす大自然の手前で、極小の人間が一人、その自然の大きさと対照を成すように描かれています。大自然を前に慄き、畏怖を感じているようにさえ見える小さな僧侶を通じて私たちは、この作品の向こう側にある「理念」としての自然の崇高さへと導かれることになる。こうした無限の巨大さを強調するためにこそ、前景の小さな人間が据えられる。さらに、画面大半を埋め尽くす自然をもってしても、すべての自然を描き切れるわけではなく、むしろすべてを描き切ることはできないという、その不可能性を通じて自然の無限性が示されることになるわけです。

デューリングは、こうしたロマン主義において有限な作品が被る受難の二つのあり方を示しています。

有限の「作品」と無限の「理念」は、「作品という有限の形態への〈無限〉の降下」によって結び付けられることで、理念は作品として受肉(=形態化)する。この時、作品は理念を指し示すプロセスに他ならず、「〈理念〉の無限性は、その痕跡、断片、反映といったものの散在を通じて現れ続ける」。作品は「痕跡、断片、反映」として不完全であり続けることによってこそ、理念の無限性を逆説的なしかたで指し示すことなる、というわけです。これはすでに見た、《海辺の僧侶》の例に典型的に現れているということができるでしょう。

ロマン主義のもう一方のヴァージョンでは、作品はさらにその場を切り詰められることになります。ここではもはや「理念」の受肉化すら行われず、「形態を創設するところの創造的身振り」のみが存在することになり「さらに、開かれた作品や無限の作品化のレトリックは、次第に脱作品化のレトリックに席を譲るようになる」。こうして作者による創造をめぐる身振り――あるいはその不可能性――そのものが特権化され、作品は必要とされなくなる。これは制作(ポイエーシス)を否定し、芸術家であるという実践(プラクシス)へと専心するデュシャンによって代表されるといえます。

これらロマン主義の二つのヴァージョンは、現代アートにおいても、いやむしろ現代アートにおいてこそ特徴的に現れているというべきでしょう。作品はそこにおいて、一方では絶えざるプロセスとして不完全性を手放し得ず、他方では、脱作品化という名の下にモノとしての受肉そのものが放棄されることになる。これこそがデューリングの見定める(「関係性の美学」からコンセプチュアル・アートまでにいたる)現代における作品をめぐる困難に他なりません。

* * *

ところで、こうした有限なモノに対する「無限」とは、現代においてどのようなものでしょうか。おそらくそれは「情報」、あるいは情報に媒介された「現実」といえるように思われます。情報化社会においてあらゆる多様かつ複雑な現実が可視化され(るかのように感じられ)、それに対し個人としての人間は、さながらフリードリヒの描く海辺の僧侶のように佇むしかない、というのが私たちをとりまく現状ではないでしょうか。

具体的な例をあげましょう。例えばわたしは、あるファッション系ショッピングサイトを見ている時に「崇高」を想起したことがあります。あらゆるジャンルあらゆる種類の商品がそこにはあり、ディスプレイに現れる個別の商品は様々にタグ付けされ、それらを通じて他の極めて類似した商品とのネットワークが無数に張り巡らされています。そこに見えているのは個別の商品ですが、その背景にある膨大な情報ネットワークは不可視であり、しかしそれが不可視であるということに直面することで、その膨大さをかろうじて感知することになる。そうした「無限」の只中で、欲しいモノは決められず時間だけが過ぎていく……

有限の「モノ」に対する無限の「情報」。これらの関係を考えていく上で、近年のレーザーカッターや3Dプリンタの汎用化に伴って広がりをみせるデジタル・ファブリケーションをめぐる議論は示唆に富んでいます。

ある鼎談のなかで田中浩也は、デジタル・ファブリケーションにおいてデジタルデータとなった設計図が国や地域を越えて共有され、それぞれのローカルな地域において物質化される、その具体的な例を紹介しています(鎌倉でデザインされた牛皮用のデジタル設計図がケニアでは現地で採れた魚の皮を材料として物質化されるなど)。ここからさらに発展すれば、現地での具体的な条件に合わせたしかたでデータに変更が加えられながらアウトプットが行われる、といった展開は容易に想像可能でしょう。

デジタル情報からモノが自在にアウトプットでき、その情報が複数の人々の間でシェアされながら、その都度の素材や必要に応じて、情報にさらなる変更が加えられていくこと。ここではモノと情報との関係は、膨大な情報からモノが選び出されるショッピングサイトがそうであるような一方向的なものではなく、モノと情報は双方向的・往還的な関係をもち、さらにこれらの往還の中で、新たなモノ、新たな情報が生み出されていくことになる——。

清水高志は先の鼎談と同じ特集内に収められた論考のなかで、こうしたデジタル・ファブリケーションにおけるモノと情報との新たな関係を通じて、制作(創造)の意味を問い直しています。

ある特定のモノの制作が、モノの最終形態であるわけではなく、制作する(創造する)ということの終局でもない。情報とモノとの往還をどこまでも経ながら、その両極を混淆させるように織られてゆく世界のすべて、そこで起こるさまざまな《転用》までをも含めたものが、「創造」という出来事の本来の意味なのだ。(清水高志「〈人間-物質〉ネットワーク世界の情報社会論」) 

ある情報によって最終地点としてのモノを制作するということではなく、情報とモノとが往還し、その両極のそれぞれが織り合わされながら変形を遂げていく生成過程そのものを創造と捉えること。デジタル・ファブリケーションに見出される、こうした新たな創造における「情報」の意味を、清水はライプニッツが用いた対概念を通じて思考しています。

あるモノの特定の視点からのパースペクティヴとして記述され、見る者の位置によって変化する「セノグラフィ」、これに対して「イクノグラフィ」は建築物の構造を平面に写した図を意味する。ライプニッツは、前者が「わたしたち[人間]へのモノの現れ方」であるのに対し、後者は「神に対してのモノの現れ方」であるといいます。この二つの図の違いとは何でしょうか。

セノグラフィが、すでに成立したものから受動的にその投影図を幾つも切り取ってきたものであるのに対し、それ[イクノグラフィ]が意味していたのは明らかに、「制作のための」図である。創造者である神にとっての「モノの現れ方」は、モノを制作してしまえる、あるいは制作してしまった、という立場から眺められるものなのだ。(前掲テキスト) 

ライプニッツのいうイクノグラフィとは、デジタル・ファブリケーションにおけるそれであるような「制作のための」図に他ならない。あるモノを特定の視点から見ることによるセノグラフィが、すでに出来上がったものから受動的に切り取られる情報としてのパースペクティヴであるのに対し、イクノグラフィは「モノを制作してしまえる、あるいは制作してしまった、という立場から眺められる」、つまり制作を可能にするための抽象化された情報であり、より平板な言葉でいいかえるならば、それはダイアグラムということになるでしょう。

一つの全体から直接的に切り出される断片としての情報=パースペクティヴではない、具体的な制作を可能にするための抽象化された情報=ダイアグラム。デジタル・ファブリケーションにおいて、人間はモノと情報との間で、それらを織り合わせるエージェントとなり、制作のための図としてのダイアグラムには、人間とモノとの協働を通じた改変が加えられ続けることになる。ここに情報の無限の横溢を前に立ち尽くす人間とは異なる、情報とモノとの間に立ちながら情報-モノの混成体を織り上げていく、そうした人間の姿を見いだすことが可能でしょう。

ここでのわたしたちの関心は、こうした「情報=ダイアグラム」と「モノ=作品」とが取り結ぶ関係にあります。デューリングの議論を通じて、ロマン主義における有限な「作品」と無限の「理念」との、無限に優位を与え続ける仕方での一方向的な結びつきについて見てきました。モノと情報との往還を通じた制作において、そこから生み出されるモノは、(ロマン主義がそうであるように)絶えず改変されうるダイアグラムの、その不可視の全体を指し示すものなのでしょうか?

そうではない。デジタル・ファブリケーションにおいて、人間とモノとの協働によって生み出される情報=ダイアグラムは、その都度の中断を仮の完成形としながら、さらなる変更へと道を進めていくことになるが、そもそもそれが向かうべき終着点=目的を持っていません。その都度の情報=ダイアグラムからの中断として産み落とされたモノは、さらにダイアグラムそれ自体を変更させる力でもありうるが、にもかかわらず、ダイアグラムが向かう先について徹底して無関係=無関心なままに、ある時点での十全な姿を物理的に留めることになる。

ゆえにそれは有限な作品によって無限を指し示すロマン主義とは別のしかたで、有限な「モノ」と生成され続ける「情報」とを結びつけるあり方を示しています。情報の絶えざる生成過程において生み落とされるモノは、最終形態ではないが、しかしプロセスとしての途上であることに尽きるわけでもなく、ある時点での情報の中断として、一つの閉じられた単位をもつのです。

* * *

先に、現代アートが未だにロマン主義の圏内にいるのではないかとするデューリングの議論を見てきました。ではデジタル・ファブリケーションに見出された有限な「モノ」と生成を続ける「情報」とのロマン主義とは異なる関係は、芸術作品においていかに可能なのでしょうか。このことをデューリングはプロトタイプという概念で表現しています。

次回へ続く

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連載 「アートと地域の共生についてのノート」

プロフィール

池田剛介

池田剛介(Ikeda Kosuke|美術作家)

1980年生まれ。自然現象、生態系、エネルギーなどへの関心をめぐりながら制作活動を行う。 近年の展示に「Tomorrow Comes Today」(国立台湾美術館、2014年)、「あいちトリエンナーレ2013」、 「私をとりまく世界」(トーキョーワンダーサイト渋谷、2013年)など。 近年の論考に「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。

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