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アートと地域の共生についてのノート 台湾編 第5回

※このコラムはMAD Cityの入居者に寄稿いただいています。古民家スタジオ 旧・原田米店にアトリエを構える美術作家・池田剛介さんが、今さまざまな論議を呼んでいる「アート」と「地域」について語ります。

連載「アートと地域の共生についてのノート」

グローバル時代に「作品」は可能か?(下)

前回、現代のアートシーンにおいてプロセス中心主義や脱物質化の方への傾きが強まっており、こうした傾向は、無限の「理念」と有限の「モノ」との関係の取り結び方、すなわち「ロマン主義」として特徴づけられるのではないか、とする議論を見てきました。デューリングによるこうした主張は、先に見たグローバル時代において「作品」が不可能となる状況に対する批判的な視座として読むことができるでしょう。

このような状況に抗してデューリングは、完全に開かれたプロセスとしてのプロジェクトでもなく、かといって完全に閉じられたモノとしてのオブジェでもない、いわばこれらプロジェクトとオブジェとの二つの極をかけ合わせるようにして生成されるものを「プロトタイプ」と呼び、ここに現代においてなお「作品」が可能となる通路を見出そうとしています。

プロジェクトの論理とオブジェの論理を結びつけること。では具体的にはどのようにそれが可能なのでしょうか。プロトタイプ概念を理解する上での最もシンプルな例は、ベルギーのアーティスト、パナマレンコによる一連の作品といえるでしょう。

パナマレンコ《The Aeromodeller (Zeppelin)》1969-1971年

パナマレンコ《The Aeromodeller (Zeppelin)》1969-1971年

潜水艦、空飛ぶ円盤、飛行船など、様々な機械的なオブジェ群を一連のプロジェクトとして制作するパナマレンコ。デューリングが強調するのは、彼のプロジェクトが「実行される前にすでに機能するような理念ではな」く、それらが継続的な実験の中での失敗の可能性をもちながらモノとして生み出されるということです。そしてもう一方で重要なのは、それが「失敗することによって」理念を指し示すものでもない、という点でしょう。パナマレンコが取り組んでいる作品は、現実化されることなく機能する「純粋な理念」でもなければ、失敗や不完全性を通じて示される「逆説的な理念」でもない。

思弁的なオブジェからなる抵抗のない環境では、可能的な作品の理念――「プロセスの」美学によって好意的に演出され、また最近では、「関係性の」美学によって再び掛け金にされているところのもの――は必ずうまくいく。そこには摩擦が欠けているのだ。プロトタイプを作りあげることは、これとは異なる。そこでは失敗が創造プロセスの構成的な次元であることが明らかになる。(エリー・デューリング「プロトタイプ――芸術作品の新たな身分」、武田宙也訳、『現代思想』2015年1月号、電子書籍版位置No. 5433)

プロセス中心主義や関係性の美学には失敗の可能性こそが失われている。なぜならそれは、はじめから不完全性を前提としているから。プロトタイプはこれとは異なり、現実の中での摩擦を、失敗の可能性をもつ。しかしそれは、失敗を目的化し、その失敗を通じて逆説的に理念を指し示すことですらない。プロトタイプはこうして「完全なる」理念と「完全に不完全なる」モノとの中間にあって、いわば理念の「中断」として産み落とされるモノとして位置づけられるのです。

デューリングがプロトタイプという概念を通じて「ロマン主義」に対置するのは、こうした物理的な「現実」の中での摩擦をはらみながら理念が物質化される生成の次元、つまり「モノ化」の次元ということができるでしょう。

* * *

プロトタイプは現実との接点において摩擦を孕みながらモノとして生み出される。では、本連載のテーマとなっている地域や社会、あるいは政治的な次元にある「現実」と作品との関係をどのように考えればよいのでしょうか? これは前編の連載第4回で考えたテーマですが、作品の成立をめぐる困難をくぐり抜けた今、別の角度からこの問題について考えてみたいと思うのです。

今一度、プロトタイプという語をめぐるデューリングによる定義に耳を傾けてみましょう。

プロト=タイプという語によってほのめかされ、また辞書によって確認できるように、それは「あるオブジェの最初の現実的なモデル」である。(…)このモデルは、雛形(マケット)や縮小模型に近いものだが、しかしまた、物理学者や経済学者が理解する意味でのモデル化でもある。モデルは、あるものをコピーするというよりも、それの代わりとなるものである。それは、あるものを単純化し、再構築するのだ。同様にプロトタイプも、作品の代理をする。
(前掲書 位置No. 5312)

プロトタイプは理念の雛形(マケット)や模型(モデル)として、いわば準-作品としてのステータスを持ち、「あるものをコピーするというよりも、それの代わりとなる」。こうしたプロトタイプの特徴を考える上で、さらにはプロトタイプとしての作品と「政治・社会的な現実」との関係を考えていく上で、赤瀬川原平による初期の作品群は、多くの示唆をもたらすように思われます。

しかし、と言われるかもしれません。初期の赤瀬川は一方でハイレッド・センターの一員としてパフォーマンス性の強い活動や、他方では《宇宙の罐詰》に代表されるようなコンセプチュアル・アートへと通じる概念的な作品で知られており、作品の物質化に関わるプロトタイプの議論とは、そもそも相入れないのではないか、と。ここではそのような「モノからコトへ」の転換点に位置づけられがちな作家を通じて、むしろコトの中に潜在するモノとしての側面を検討したいと思います。

赤瀬川原平『オブジェを持った無産者:赤瀬川原平の文章』(河出書房新社)

赤瀬川原平『オブジェを持った無産者:赤瀬川原平の文章』(河出書房新社)

ところで周知のように赤瀬川は、千円札を模造した(偽造ではなく)かどで起訴され、先例を見ない千円札裁判へと巻き込まれていくことになります。千円札を扱った一連の作品に関して赤瀬川は、それがコピーやニセ物とは異なる千円札の「模型」であったと主張しています。

ニセ札とは、できるかぎり相手の本物になり変わり、額面上は本物としての顔をもって、本物の間をくぐり抜け、使用されていくものであり、一方模型とは、最初から本物とは異なる顔をもち、本物に対比して置かれるものである。
(…)模型自体は実物に対して、直接的な攻撃力をもっていないが、それは実物の世界、「本物」の独占企業が揺れている、本物とニセ物の攻防戦を覗き見するフシ穴であり、その観察の一つの手がかりになるものである。(赤瀬川原平『オブジェを持った無産者』河出書房新社、35-36頁)

ニセ札が本物と同じ顔を持ちながら流通し使用されていくのに対して、こうした本物とニセ物との攻防戦を覗き見するためのものが「模型」である、と。「模型」とは本物のコピーとして位置づけられるニセ物とは異なり、千円札のもつ構造を、ある視点から縮約し再構築する。

この千円札の模型は、いわば本物とニセ物のメカニズムを描いた絵画、或は図式でありますが、その図式はその模型の表面に直接描かれているのではなく、それを見て惑乱する者の内部にそれぞれの形で描かれるのです。(前掲書、114頁)

千円札をめぐる本物とニセ物とのメカニズム、それらの攻防戦は模型として図式化される。しかし図式は模型そのものに描かれているというよりも、見る者の想像力に作用するしかたで描き出される、というわけです。

模型という観点からいえば、こうした千円札のシリーズが、千円札を200倍のサイズに手書きで拡大していくところから着手されたこともまた重要なように思われます。日常の中にあって不可視にされている千円札のメカニズムへとアクセスするためには、それが知覚可能となるスケールへと変化させる必要がある。ここでは千円札をめぐるメカニズムを知覚化するための操作として、拡大模型という手段が選ばれているといえるでしょう。

先述したように、この時期の赤瀬川は、ハイレッド・センターによる一連のハプニングやイヴェントと呼ばれる実験的行為が知られています。当時、乱立する諸グループの中にあってハイレッド・センターは、知能犯的な活動を行っていたことはしばしば指摘されており、とりわけ会社や組織を模したような名前に示されるように、(擬似)公共性、(擬似)匿名性を纏いながら様々な実験的営為がなされています。一年数か月という短命なグループとしての活動の中で、様々な単発のプロジェクトが展開され、これらは基本的にハプニングやイヴェントとして、一回性をもって組織されていました。

ハイレッド・センターでの活動と重なり合うようにして赤瀬川は個人としての活動を展開しており、そこには千円札や梱包をめぐる様々な作品が、モノとして産み落とされていきます。この点において赤瀬川作品を、しばしば「直接行動」として、その行為性が強調されるグループでの活動と、ある程度まで区別することが可能でしょう。こうした当時の赤瀬川の作品をモノとしての側面から捉え直していくとき、同世代のネオダダ周辺のメンバーや、あるいは他のハイレッド・センターのメンバーによるそれとも異なる、独特の質が見えてくるように思われます。

読売アンデパンダンに代表される当時の最先端の動向は、「破壊」や「増殖」、「表現の坩堝」や「直接行動」といった言葉によって示されるように、きわめて熱く、表現的ないし拡張的なものであったことが知られています。この点は、ネオダダ周辺のアーティストは言うに及ばず、ハイレッド・センターの他のメンバーにすら認めることができるでしょう。中西夏之による、キャンバスに金属製の洗濯バサミの大群が群がるかのような作品には、羽音を立てるような有機的で増殖的なエネルギーが充満しており、高松次郎による紐を使った作品もまた、様々なオブジェへと絡みつき、やがて隣の部屋や美術館の外へと抜け出していく、その有機性と拡張性への志向を見て取ることができます。

こうした表現的な熱気をもった増殖性や拡張性への同時代的な志向にあって、赤瀬川の作品には、なにかこれらと決定的に異なる独特の質があるように感じられないでしょうか。ひたすら正確な手書きで拡大された千円札やクラフト紙と麻縄で包んだだけの日用品。これらには観客に対して熱く訴えかけてくるような表現性も、社会に対して積極的に開かれていくような能動性も欠落しているように思われます。むしろ赤瀬川作品には無機的なモノとしての強い「閉鎖性」が感じられるのではないでしょうか。

しかしこう思われるかもしれません。梱包とはそもそも閉じることに関わるのであり「閉鎖性」を持つのは当然であろう、と。この点についてクリストによるプロジェクトを参照しておきたいと思います。

クリスト&ジャンヌ=クロード《Wrapped Coast, One Million Square Feet, Little Bay (Australia, Sydney)》 1969年

クリスト&ジャンヌ=クロード《Wrapped Coast, One Million Square Feet, Little Bay (Australia, Sydney)》 1969年

クリストによる梱包が、作品を展開する中で巨大化を極め、建物全体を梱包したり広範囲にわたる地域でのプロジェクトとして展開していくのとは逆向きに、赤瀬川のそれは、蟹缶のラベルを剥がして内側に貼り付けて再び缶の蓋を閉じることで空間の内側と外側を逆転させ、宇宙そのものを「梱包」する《宇宙の罐詰》へと向かう。いわばクリストの梱包が外向きに拡張していく志向を持つのに対し、赤瀬川のそれは徹底した収束性をもち、しかし収束してなお、収束し尽くして非物質化されるのでもない、物理的な閉鎖性を保つことになる。

《宇宙の罐詰》1964年/1994年

《宇宙の罐詰》1964年/1994年

あるいは「千円札」に関して、社会の中での使用可能性を示唆するものとして、その拡張性の志向を読むことは、ある面では正しいと言えるでしょう。しかし、先の引用において示されているように、模型としての千円札は、その使用価値へと賭けられたニセ札とは異なり、本物とニセ物との関係を縮約した千円札の代理物に他なりません。それは「本物とニセ物の攻防戦を覗き見するフシ穴」であり、そうした攻防戦の繰り広げられる世界から閉鎖されながら、なお一点の(フシ穴ならぬ)針穴を通じて世界を映し出すためのカメラの暗箱(カメラ・オブスキュラ)と見なすべきではないでしょうか。

モノとしての赤瀬川の作品に着目する際、こうした閉鎖性という点と共に注目したいのは、梱包シリーズにおけるモノの輪郭の扱いについてです。

美術批評家、中原佑介の企画による展覧会「不在の部屋」では、高松次郎による紐を扱った作品と赤瀬川による梱包作品とが隣あって展示されています。高松の作品では、椅子や机、机の上のコップや筆記用具といった様々なモノたちに紐が絡みつきながらネットワーク状に結びつけられており、モノの個別性というよりも環境の中での拡張性や、紐を張り巡らせるアーティストの主体性が見えてくるように感じられます。

これに対して、赤瀬川による「梱包」においてモノが強い個体性を保っているという点は、瑣末なことのように見えながら注目に値します。ソファ、扇風機、ラジオ、カーペットという複数のモノが一緒くたに梱包されることなく、しかもその梱包は、徹底して内容物の輪郭に沿うしかたで行われています。こうしたモノの個別性への志向は、この展覧会に限らず梱包作品を通じて一貫しており、クラフト紙や模型千円札によって包まれた表面を結びつける縄には、モノの輪郭を壊すことのないような、あるいはその輪郭を強調するかのようにさえ見える手つきが感じられます。梱包シリーズにおける一つの極を成す《宇宙の罐詰》もまた、モノの輪郭に沿うしかたでの操作であったことを思い出しても良いでしょう。

Pasted Graphic

「不在の部屋」展(写真:羽永光利) 写真手前は赤瀬川作品、中央奥が高松作品

* * *

無機的なモノとしての閉鎖性、そしてモノの個別の輪郭を保ち、強調しさえすること、これらの意味について考えていく上で、先の回で取り上げた、中島隆博による荘子をめぐる議論に立ち戻ってみたいと思います。

荘子に関して中島は、よく知られた「万物斉同」ではなく「物化(ぶっか)」という概念に重点を置いた読みを提示しています。万物斉同とは、しばしば全ての存在がその個別の輪郭を失い、ひとつの全体性の中に溶け込むような概念として捉えられ、荘子の中心概念と見なされてきました。これを雑多な表現の熱が混じり合ってカオスとなる、いわゆる前衛のイメージで捉えることも可能でしょう。こうした「万物斉同」に対し「物化」とは、ある存在が別の存在へと変化することを指す。この「物化」を示すエピソードとして、荘子が夢の中で蝶に変化する「胡蝶の夢」はよく知られています。

(…)強調しておかねばならないことは、「物化」は自他の区別を無みするものではないということだ。もし「物化」を通じて、自他の区別がなく、自他が融合した万物一体の世界が目指されているのなら、「物化」という変化はそもそも不要であるし、何よりも胡蝶の夢の原文において「荘周と蝶とは必ず区別があるはずである」と述べる必要もない。(中島隆博『『荘子』——鷄となって時を告げよ』岩波書店、p150)

現実世界での荘周(荘子)が夢の中で蝶に変化すること――この説話はしばしば、現実と夢とが根本的な区別を失い、荘周と蝶、夢と現実とが自由自在に変化し続ける、そうした流転的世界を肯定する「万物斉同」に引き寄せるしかたで理解されてきました。

このような解釈に抗して中島が強調するのは、「物化」とは夢と現実、あるいは自己と他者との区別を消し去りすべてが一体化するもの「ではなく」、むしろこれらの世界には「区別がある」という点です。荘周と蝶には、あるいは現実と夢には区別がある。区別があるからこそ、夢の中では蝶であることに深く充足し、また夢から覚めれば荘周であることを徹底して肯定することができる。互いに他なる世界に関して無関係=無関心でありつつ、閉じられた「この世界」での生に深く充足すること。

では「区別ある」世界において荘周と蝶との切り換わりは、いかに可能なのでしょうか? 「区別ある」世界において閉じられた時空を生きる「わたし」は、「わたし」という不変の輪郭に留まり続けることになるのでしょうか?

わたしたちはすでに「魚の楽しみ」をめぐる議論において、他なる存在からの触発によって「わたし」の輪郭が変容しうるヴィジョンを荘子に見てきました。「わたし」と「魚」の世界には区別がある。しかし具体的な配置の中で魚との「近さ」の関係に入ることによって「魚の楽しみ」へと開かれうる。互いに閉じられた区別ある世界の只中で、他なる存在との近さを通じた触発によって「わたし」の同一性が揺らぎながら変容へと開かれること。物化とはつまり、「個別・個体性」の論理と「変容」の論理とを結びつける概念として理解することができるでしょう。

赤瀬川の作品に戻ります。必ずしも外の世界に向けて能動的・積極的に発現されるのではない、世界に対する無機的な閉鎖性をもった作品群は、この現実世界とどのように関わることになるのでしょうか。先に触れたように赤瀬川は、千円札を模造したかどで起訴され、たぐいまれなる芸術裁判へと巻き込まれることとなります。

模型千円札裁判での証拠品審議

模型千円札裁判での証拠品審議

この「千円札裁判」において、法廷には様々なオブジェが溢れ、アンデパンダン展さながらの空間へと化したことが知られています。それまでは「反芸術」と謳われていたのにもかかわらず、ここではあらゆるものが「芸術」と呼ばれることとなる。こうした反芸術からの「転向」とも捉えられかねない物言いは当時から多くの批判を招いており、好意的に捉える側からも、いわば法廷上の必要な二枚舌として理解されてきたのではないでしょうか。

しかしこの「芸術」という言葉を、裁判内での方便としてではなく文字通りに捉えるとするならば、ここで「芸術」とはいかなる意味を持つのでしょうか。法廷における「反芸術」から「芸術」への変容であり、その只中で、法廷という空間は別様の場へと変化する。かつて「反芸術」であったオブジェ群は「芸術」へと変容しながら、アンデパンダン展さながらの状況を生成するモノたちとなる。モノたちは証言する。何を? 法廷というこの場が、それ自体において別の場へと変容しうる可能性を。ここで「芸術」とは、「今・ここ」にありながら、にもかかわらず「今・ここ」とは異なる時空を創出しうること、その可能性に与えられた名であるとすら言えるでしょう。

ここでのモノたちは、現実に対する能動的な「直接行動」を行ったのでしょうか? そうではない。むしろモノは状況から一旦切り離され、モノとしての輪郭を持って閉じられているからこそ物的証拠となり、証言するモノとなる。法廷の場は本来、証拠品としてのモノをその内に収める場でありながら、むしろモノが証拠品という定められた役割=職務を半ば逸脱しつつ溢れかえることによって、法廷を占拠し、その場の意味を「内側から」変容させる――内側にラベルを貼られた蟹缶のように。

これらのモノたちは、法と芸術という区別を能動的に破壊することで、法の場を変容させるのではない。むしろ法的なプロセスに則りながら(いわば法の「輪郭」に相即するしかたで)、あくまでも裁判内の証拠品として運び込まれ、証拠品としての役割を徹底することを通じて法廷の場を変容させてしまう、そうした方法であった。それは例えるならば、靴下の表と裏をひっくりがえす(inside-out)ような方法であり、単にアウトロー(法外)であることとは似て非なる、インサイドアウトロー(法のひっくり返し)とでもいうべきものでしょう。法と芸術を「区別ある」ものとしながら、むしろ徹底して法のルールを受け入れることによって、法の場に「インサイドアウトな変革」をもたらすこと。

* * *

こうした世界の「変革」は、しかし千円札裁判のようなドラスティックな出来事に限られるものではない――赤瀬川作品は、そのことをもまた伝えています。わたし(たち)がしばしば靴下の裏返しに気づくことなく一日を過ごすように、変革は「輪郭を保ちながら」日常の世界を侵食することとなる。《宇宙の罐詰》はこうした出来事の潜在性を美しく模型化した、「インサイドアウトな変革」のプロトタイプ=モノ化としての作品であるといえるでしょう。世界の区切られとその裏返しは「模型の表面に直接描かれているのではなく、それを見て惑乱する者の内部にそれぞれの形で描かれる」(赤瀬川)。

輪郭に沿うしかたで内側へと貼りなおされたラベルは、(人間)社会的に与えられた「内と外」という意味を宙づりにする。内と外とが宙づりにされながら、しかしラベルを背にした世界Aとラベルを含む世界Bとを分かつ缶詰の輪郭そのものは維持されており、世界Aと世界Bとが自由自在に変転可能ということではない――夢と現実との「区別のある」胡蝶の夢のように。区別された二つの世界を統べる超越的な視点は存在しない。ラベルを背にした世界Aを生きるわたしたちにとって、世界Bの中のカニは、缶詰の輪郭によって強く隔てられた他者である。

しかし荘子の「魚の楽しみ」を知るわたしたちは、作品によるインサイドアウトな変革を通じて、カニの生きる世界Bへと惑乱的に巻き込まれながら「カニの楽しみ」を知ることになるかもしれない。「物化」とは、区別された世界の只中に潜在する、こうした「かもしれない」の偶然性と共にある変容でした(千円札裁判において不意に芸術の場へと巻き込まれた検察や裁判官たちは、少なくとも、このような惑乱可能性へと開かれていたのではないでしょうか)。それは作品と見る者とが互いの輪郭によって区別されていながら、いや区別されているからこそ可能となる、見る者の世界が他なる世界へと巻き込まれながら裏返される経験であるといえるでしょう。輪郭なしでは裏返しにはなりえない。

こうして模型としての作品は、見る者との間に区切られた世界を形成しつつインサイドアウトな変容をもたらしながら「それを見て惑乱する者の内部に」この世界の別様の可能性を描きだす――オブジェとして完全に閉じられた同一性を保つのでもなく、しかし完全に開かれたプラクシスとして見る者との区切られを無みするのでもなく。区切られたモノを通じて見る者の内部に惑乱的に描きだされる別様の世界は、「わたし」が感覚しうる世界の輪郭を揺さぶりながら、「わたし」と世界との関係をすでに変革の只中へと巻き込んでいるのです。モノ化=物化としての作品。

次回(最終回)へ続く

プロフィール

池田剛介

池田剛介(Ikeda Kosuke|美術作家)

1980年生まれ。自然現象、生態系、エネルギーなどへの関心をめぐりながら制作活動を行う。 近年の展示に「Tomorrow Comes Today」(国立台湾美術館、2014年)、「あいちトリエンナーレ2013」、 「私をとりまく世界」(トーキョーワンダーサイト渋谷、2013年)など。 近年の論考に「干渉性の美学へむけて」(『現代思想』2014年1月号)など。

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